人生における一瞬とは何秒?『Think Clearly 最新の学術研究から導いた、より良い人生を送るための思考法』part2
『Think Clearly 最新の学術研究から導いた、より良い人生を送るための思考法』著者:ロルフ・ドベリ
はじめに
昨日に引き続き本日は本書part2をお送りします。
あとトップの画像はまったく記事とは関係ないです…😌
映画「いまを生きる」の切り取りなのですが、これも大好きな映画のひとつです。
もしこの記事をみて気になった方がいらっしゃったら前回の記事をぜひご覧ください!
1.今を生きる
「体験している私」
私たちは生きている中で、この二人の人物に出会います。
「体験している私」とは今この瞬間に起きていることを体験している”意識”の部分です。いまこの記事を読んでくださっている皆さんの意識がそれにあたります!(ありがとうございます…。)
この「私」は体験するだけでなく、体験しながら考えたり感じたりもします。体の感覚を認識するのもこの「私」です。
私たちの意識はこれらをある「瞬間」に体験する一つの出来事として認識します。
では「瞬間」とはどれくらいの長さを指すのでしょうか?
現在は3秒
心理学者の研究によると「約3秒」が私たちが現在を感じている時間らしい。つまり、私たちが「今」を感じることが出来るのは、約3秒の間に起きた出来事であり、その瞬間の連続により私たちは体験しているのだそう…。
簡単に言うと、睡眠時間を差し置いて私たちは
一日に約2万の「瞬間」を
一生に約3億の「瞬間」を体験しているのです。
想像したより意外と多くないですか?
しかし皆さんの昨日1日を振り返ってみてください。
約2万の瞬間を感じ取っているはずなのに覚えていることってめちゃめちゃ少なくないですか?
そうなんです。
それらのほとんどは完全に忘れされられてしまうのです。
「思い出している私」
「思い出している私」とは、「体験している私」が捨てなかったほんのわずかな記憶を集め、評価し、整理する意識の部分です。
簡単に言うと、昨日食べためちゃめちゃおいしかったチョコレートを思い出している瞬間ですね!
今まで二人の人物を紹介してきましたがこの二人の違いは何でしょうか?
私なりの両者の解釈は、こうです。
「体験している私」=無駄が多いが生きている実感を得られる。
「思い出している私」=勘違い野郎で私たちのアルバム係。
「休暇中の学生たちの幸福度」を調べたこんな研究結果があります。
夏休みが終わった後のほうが、夏休みを過ごしている最中よりも幸福度が高かったのです。
ええ~~~…。この研究結果を見て驚いたのは私だけじゃないはず…。
この研究から何が言えるのかというと、
”「体験している私」のほうが「思いだしている私」よりも幸福度が高い”
ということです。
「思い出は美化される」とか言いますよね~…。
何かを体験した時に記憶に残るのは、その出来事の一番印象深い「ピーク」部分とその「終わり」の部分だけです。
つまり「思い出している私」には勘違いしている部分が多いのです。
思い出を増やすために現在の幸せを犠牲にしていませんか?
私はよくしていました(笑)
今の自分には全く関係なくても、まあ後々いい思い出になるから今経験しといてもいいかな~という感覚で「アルバム」のためにその瞬間を犠牲にしている自分が思い浮かびます…。
その先にあるのが、自分の目標であったり夢ならば達成するための通過点だと思います。しかし、それがただの「アルバム作り」ならば、意味がないですよね…。
現在を生きているというよりかは将来の思い出作りのために生きているようなものです。
「体験している私」も「思い出している私」もどちらも大切な部分ではあると思いますが、研究結果のように充実した人生を送るためには
目の前にある課題「今」と向き合う必要があります。
「人生最高の記憶」にいくらまでなら払えますか?
あなたが思い描く「最高の経験」は何ですか?
その経験にいくらまでなら払えますか?
その経験の記憶が何一つ記憶に残らないとしたらいくら払いますか?
「1日」「1年」「10年」覚えられるとしたらいくら払いますか?
著書によると、
「経験の価値」はどのくらい記憶に残るかで決まるらしい。
では記憶に残らなければそれは価値のないものなのだろうか?
大好きな映画「千と千尋の神隠し」で記憶に残るセリフがあります。
”一度あったことは忘れない”
千尋がいた不思議の町での思い出は、トンネルを抜けると忘れてしまいます。
しかし不思議の町で千尋が経験したさまざまな出来事が彼女を成長させてくれたことは変わりありません。そしてその成長は忘れてしまったからと言って失われるものではないと思います。
自分が経験した出来事が覚えていなければ価値がないのではなく、記憶に残らなくてもその経験には価値があります。
千尋にとってそれは成長だったのかな…?
(あくまで私なりの解釈ですが…!)
素晴らしい瞬間を積み重ねて出来た人生は、たとえそれらの記憶が残らなくても素晴らしい人生に違いないと著者は述べています。
経験は記憶よりも価値があるのです。
認知症の人たちの感覚世界
これは私が印象に残った言葉です。
認知症の人たちは、一瞬一瞬記憶を伴わないその時限りの経験を繰り返しながら生きている。この記憶のなさを理由に「どのみち覚えていないから」と、介護施設などでは認知症の人たちをぞんざいに扱う買い越しが後を絶ちません。しかし、覚えていないからと言って認知症の人たちがぞんざいに扱われていい理由にはならないです。なぜなら、記憶には残らなくてもその瞬間は、認知症の人たちも確実の経験しているからです。
同じことが私たちの経験にも当てはまります。
「体験している私」と「思いだしている私」でもお話したように、
過去のために生きるのではなく、今を楽しむことが大切です。
part1でも書いたように、たとえ記憶には残っていなくてもその経験は、私たちの将来の夢や目標を実現するための糧となります。
今を一生懸命に生きていたら、その経験が私たちを強くしてくれると思います。
(精神論みたいになってきていないかな…。)
2.自分のポリシー
皆さんは自分のポリシーを持っていますか?
私は、自分がされたら嫌の事は人には絶対しないというポリシーを掲げています。(実現できているかどうかはさておき…。)
著者は、どんな事情があろうと妥協できない、個人的な優先事情や主義の明確な領域を「尊厳の輪」と呼んでいます。
小さくても自分の中ではっきりとした「尊厳の輪」を作り上げることは、より良い人生を送るために必要不可欠です。
マイルールの境界線を知っておくことが自分の幸せにつながります。
ポリシーがブレブレな人についていこうとは思わないですよね…。
尊厳の輪は経験と共に形成されていくものだと思います。
生きていて出会うさまざまな価値観や出来事によって自分の考えも価値観も少しずつ変化していきます。
そうして経験する中で自分の中で譲れないもや守りたいものを構築することにより尊厳の輪が作られます。
しかし、「尊厳の輪」を貫くときに覚悟しなければいけないことがあると著者は述べています。
それは、自分の信念を貫くことで他人を失望させることは避けられず、時にはあなたの好きな人を落胆させるかもしれないということだ。
”何かに命を懸ける覚悟のない人間は、人生に未熟である”
とキング牧師が言ったように、
つらい経験に耐える覚悟のない人間もやはりより良い人生を手に入れることが出来る権利はないのです。
簡単に言うと、嫌われること、傷つくことを恐れて自分のポリシーを変えまくっていたら自分自身も失ってしまうということです。
そして自分の判断基準となるポリシーは時には自分自身を守ってくれることにもなる。
与えられている自分の人生を生きるためにも、自分をしっかり持ちたいですね。
最後に
今回は主に「今というこの瞬間を生きる」「自分のポリシーをはっきりさせる」という二つの話題について記事を書きました。
どちらも共通して多く出てきた言葉は「経験」です。
経験をどのように生かすか殺すか作っていくかは自分次第で、それが今後の自分の人生に影響を与えていくと思います。
経験した後も大切ですよね。
記事を書きながら自分の言いたいこと、インプットアウトプットをしたいことを整理していっているのですがなかなかブレブレな内容になっているのではないかと思いつつ綴っています…。
んー難しい(笑)
では今日もこのへんで~~~!
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