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バーチャルYouTuberはどこから来て、どこへ向かうのか

最近になってどういうわけかバーチャルYoutuberに熱中している。理由はシンプルで、文野環さんというとても面白い配信者をみつけたからである。それ以前はどちらかというと、その存在を知るまでであったし、むしろ興味をもつ機会すらなかった。

バーチャルYoutuberの世界は過去からの変遷を鑑みても実に興味深いものがある。世の中にはハマってみないとわからないようなことがたくさんあるし、実は僕たちの想定を超えてくる事実が待ち受けていたりする。だから、概して僕たちは僕たちの中に立ち入ってくる新しい概念を拒んではいけないだろう(去ることを拒むこともできない)。

そもそも僕はバーチャルYoutuberが誕生した2年ほど前から、その内実をほとんど知らないままここまで生きてきた。この事実は決定的であり、そして、今現在の僕がこのコンテンツにハマっていることには何かしら重大な理由があるように思えた。
バーチャルYoutuberという概念自体はキズナアイの登場からカウントするよりも、大衆に認知された四大(五大)Vtuber(キズナアイ、ミライアカリ、輝夜月、シロ、のじゃろりさん)の確立が得られた2018年初頭を起点とすることが慣例である。そして、現在は当時いわれていたような概念とは大きく乖離したVtuberの姿がある。このことはバーチャルYoutuber界隈をよく眺めている人なら自明のことである。当初は3Dモデリングを「受肉」した上での活動が多かったが、今ではlive2Dモデルの「受肉」がスタンダードになっている。いわゆる四大Vtuberの動画投稿スタイルから、今やにじさんじ・ホロライブが示しているようなライブ配信スタイルが主軸となっている。
これにはいくつかの原因が考えられる。
第一に、Vtuberの汎化を目指すには、3Dモデルはあまりに高コストであったのであろう。live2Dモデル(表情と少々の動きのみの反映)だけでVtuberとしての機能は果たせる、ということに気づいた誰かが、コンテンツ成長のために行った施策なのであろう。幸いなことに、この施策はとてもうまくいっている。現に、僕が熱中する機会を手に入れたのは、そのようなlive2Dモデルによって配信数の増えたVtuberの姿に親近感を持ったからである。僕だけでなく、多くのVtuber好きはそのようなきっかけ作りにうまくハマって熱中していったのではないだろうか。
第二に、Vtuberのバズる構造が「切り抜き」であることに由来しているのであろう。そもそもVtuberというコンテンツに火がついたきっかけはニコニコ動画に上げられた切り抜きである(当時ニコニコ動画のへビーユーザーであった僕は、その火がつく過程をしかと見ていた)。そもそも切り抜き動画というものは、動画として編集された体裁よりも生配信アーカイブとの相性が良い。視聴者が面白いと思ったポイントを勝手に切り抜くという二次創作そのものがVtuberというコンテンツのコミュニティを成長させる手立てになっていたし、視聴者が「切り抜き」を制作するという観点でこの文化に参画していることに大いなる価値があったのだろう。Vtuberの文化は様々な観点からニコニコ的二次創作コミュニティとして成長している。この点はVtuberの未来を考える上でとても参考になる。
第三に、文化生成のコミュニケーションが生配信・live2Dのスタイルにマッチしていたからであろう。というのも、そもそも視聴者が親近感をもつきっかけとして、長時間の接触(=生配信でのコミュニケーション)が必要なわけだが、その過程でコミュニティ内の世界観が醸成されていく。たくさんのVtuber同士のコラボを通したコミュニティ内での内輪な話題作りや、ある種のコードをつくる営みはどのような文化においても発生する典型的な文化生成の過程にあるものである。これにより、配信者のチャンネル内で、あるいはVの界隈内で一つの「ムラ」が形成される。このようなスタイルの文化生成は、わるく言えばAKB48のようなキャバクラ的商法でもあり、よく言えば古来からある八百万の神の世界観である。一つの村長(あるいは概念)を軸にムラが形成されていく。一つの文化の名の下に話題を共有し、そしてその中の共通のコードで盛り上がる。視聴者同士で盛り上がることもあれば、配信者同士、あるいは視聴者と配信者の間で盛り上がることもある。登場人物や大会を共有する、というイベントはとても良い例だろう。このようなスタイルは生配信というストーリーを視聴者が共有すること、そして複数性をもちやすい簡易なlive2Dモデルが配信者に多く配られたこと、これらに起因されていることはよくわかる。

他にも、時代が生配信的なコミュニケーションに寛容になったという点は決定的であったはずだ。スーパーチャットがとても良い例であるが、評価経済的なコミュニケーションが現代になってより盛んになったこと、日本古来の見立ての文化、アイドル文化の影響があることは間違いない。けれども、まずもって第一の経済的要因第二の文化的特質の要因第三の文化生成における要因、これら三つがおおきな鍵を握っていることは間違いないように思われる。

もう少し踏みこんで考えたい。僕が念頭においてるのは「これからVtuber文化はどのような変遷をとげるのか」という問いである。タイトルに触れておくならば、僕はここまでである一定のVtuberの過去からの変遷をさらった訳だけれど、Vtuberは将来どうなるか、ということが気になるのだ。なにより、なぜ僕はこのタイミングでVtuberを好きになったのか、というポイントがまだまだ解決できていない。

ここまでで僕は三つの切り口を提示した。そのうちで僕が議論を深めたいのは後者二つの視点のみである。というのも、第一の経済的要因は数字を用いて扱った方がよいからだ。Vtuberを扱っている企業やVtuberの数の動向など、正確で統計的に信頼性の高いデータを過去の動向と共に見比べて論証した方がよい。そして、そのようなことは僕の技術では語りきることができないし、他のもっと上手な誰かが扱っているトピックであろう。
僕が語りきれることというのは、文化に触れたその経験をもとに断言できるような、文化的特質と文化生成の特性についてだけである。言いかえるならば、Vの界隈における「切り抜き」文化「ムラ」文化の二種の文化を武器にしてしか、この後の話を進められない。


再度僕の言っている「切り抜き」文化と「ムラ」文化の意味を明確化させよう。
「切り抜き」文化とは、いわばVtuberという産業の外部に存在する文化であり、それに対して「ムラ」文化とはVtuberという産業の内部に存在する。もはや現代のバーチャルYoutuberといえば、株式会社いちからあるいはカバーに所属しているいわゆる企業勢が大半を占めているが、そういった企業がコントローラブルなものが「ムラ」文化であり、コントロールの難しいものが「切り抜き」文化といえる。その境界を明確に定めることは難しいが、確実に異なる特徴を持った二つの文化がVの界隈には存在している。
「切り抜き」文化は切り抜き動画のことだけを指しているわけでもない。たしかにVの文化を「切り抜き」的にさせている主な要因が切り抜き動画であることは間違いないが、ツイッターで誰それの配信のことを批評することとやっていること自体は同じである。切り抜き動画とは、いわば引用リツイートのようなものであり、配信者とリスナーの間にあったコードを外部に対して輸出するためのイントロに役立っている。その動画内には確実に何かしらの事件性が付随していて、それを短い時間で外部に提供することが可能になっている。
対し、Vtuberにおける「ムラ」文化とは「切り抜き」よりも濃密な空間が醸成されている。同じ時間を共にする体験やスパチャによるコミュニケーション、「こんにちワニノコ(これは月ノ美兎のオープニングに流れるコメントだ)」のようなリスナーと配信者の間に生まれる独特のコード、それらを生み出すコミュニティ、それらを全て含んだ濃密な空間である。こういったコミュニティは色々な文化においても見られる。だからこそ僕はこれを「ムラ」文化と名付けたい。かつて『涼宮ハルヒの憂鬱』が流行った時代に多くの大学でSOS団が結成されたように、あるいはニコニコで淫夢厨が語録のみでコミュニケーションをとっているように、共通のストーリーや共通のコードを保持することは一つの「ムラ」文化を醸成しやすい。

Vtuberが面白いのは「ムラ」文化と「切り抜き」文化の緊張関係にある。切り抜き動画という外の世界との出入口がしっかりとあるおかげで、ひとつの配信者のコミュニティが酷くディープになるということが少ない。「ムラ」の中のコードは外の世界に開けている。それゆえに視聴者の流動性が高いかもしれないが、総合的なバーチャルYoutuberの界隈は維持される。Vの界隈は1人の配信者に固執することもあるのだが、切り抜き動画を通したゆるやかなコミュニティに対する愛を醸成する。良くも悪くも似たような試みをしたアイドル文化は、どうしても「推し」という概念を捨てきれていない。「ムラ」化することに対する緩和剤としてのVの「切り抜き」は、文化を発展させる意味でとても強力なのである。面白いことに、配信者側にとってもVtuberはある種「受肉」を入り口とした一つのコミュニティであり、内輪でありながらも外に開かれた世界として存在している。一つのチャンネルを越えたコラボという試みは(Vtuberだけが特例というわけではないが)一チャンネルが設けた一つのムラの外側に、一つの大きなムラを作り出す営みに他ならない。コラボや大会イベントを通して文化の内部は文化の外部と接触し、切り抜きを通して文化の外部は文化の内部に接触している。
ここまで書いてみて僕は一つのことに気づいた。Vtuberの界隈は確実に拡大しているということである。だからこそ、僕のようなバーチャルYoutuberに興味のなかった人間を巻き込めるようになっている構造がなにかしら現時点では成立しているのである。それこそ、一つは「切り抜き」動画という入り口なのだろう。
ここまでで少しだけでも僕の伝えたいことに近づいてもらえたら嬉しい限りである。Vtuberには何かしら独特の性格がある。文化という視点から見ると、それは外部と内部に影響を与える文化のバランスといったものが素晴らしいからなのだろう。
では、その文化をもとにして、僕が一番話したいことについて書こうと思う。


バーチャルYoutuberはどこから来て、どこへ向かうのか

バーチャルYoutuberはどこからきて、どこへ向かうのか。これについて僕は一つの仮説を立てたい。そこには僕の実体験と僕の哲学的な推論しか根拠がない。そこで、僕はその根拠をできるだけ明晰になるよう前文で叙述した。ここからはそれを武器にして仮説を立てるまでである。だから、この仮説は前文に示した分析とは大きく次元の異なるものである。精緻さもある程度低くなる。けれども、それを聞いて納得する可能性もある。食べず嫌いはよくない。話を聞いてみてから判断をしてほしい。

僕の仮説は明快である。バーチャルYoutuberの文化はニコニコ動画にあったような「切り抜き」文化と地下アイドルや深夜アニメの「ムラ」文化が配合されたインターネット文化の現役選手である(この時点で僕は「どこから来たのか」という問いに答えを出している) 。では、かつてそのような配合がなされたコンセプトと似たような動きをするのではないだろうか。僕がここで思ったのは初音ミク(ボーカロイド)である。初音ミクからアナロジーを始めて、初音ミクと同じところ、初音ミクと違うところを見ていきたい。
初音ミクは1人のボーカロイドであり、ただの擬似音声を出力をするシンセサイザーだと言ってしまってもいい。にもかかわらず、そこに独自のストーリーがニコニコ動画上の有志による「切り抜き」的な動画によって付随されて、一つの大きな文化となった。その文化は拡大して行き、鏡音リン・レン、GUMI、IA、がくぽ、巡音ルカ…といった様々な別のボーカロイドにも波及していった。
Vtuberの現在地と似ているところは様々にある。どちらも中心に企業(クリプトン≒いちから、カバー)がいるけれど、その文化を醸成していたのはリスナーの「切り抜き」(歌ってみた/踊ってみた≒切り抜き動画)である。かつて「切り抜き」的なボカロ文化は海外にも波及したが、それと同じような「切り抜き」のされ方でホロライブを筆頭とするVtuberは海外進出を果たしている。ボカロPはそれぞれに固有のリスナーを持っていたが、「ボカロであれば聞く」というリスナーが絶対数存在し、そのような環境で新進気鋭のボカロPが発掘されるプロセスが踏まれていた。同じように、現在のVtuberも、「にじさんじ/ホロライブの新人であれば見る」というようなリスナーが絶対数存在する。配信者の側も、「受肉」すればVtuberと名乗れるように、ボカロPも、どんなジャンルを作っていようとボーカロイドさえ使っていればボカロPと名乗れるようになっている。どちらも文化の構成員(ボカロP、ボカロリスナー≒V配信者、Vのリスナー)になるための決定的な制限はなく、とても外のコミュニティ開かれた文化形成をしている。だからこそ、軽率にその文化に参入することができ、それゆえに巨大な文化コンテンツとなった。
ボカロはもはや衰退している、と僕は見ている。かつてのような人気はもうない。けれども、少なからずボカロを今でも聴いている人はいるだろう。それはボカロという文化の力強さでもある。そして、それと似たような力強さをVtuberは持っている。
ボカロとVtuberの間には決定的な違いも存在する。ボカロが上手く醸成し続けることに失敗した「ムラ」文化を、V界隈は多くの企業勢が担っている。ボーカロイドは外部からの「切り抜き」的な参入者=ボカロP、ボカロリスナーを最終的に逃してしまった(ハチは米津玄師になったし、じん.feat IAはボカロではなくカゲロウプロジェクトになったし、AyaseはYOASOBIになった)。それはボカロ文化に「ムラ」を作る内部が少なかったことにある。Project DIVAのような内部コミュニティが、ボカロにはあまりにも少なすぎた。文化に所属する意味を失ったら、彼らは外部に復帰してしまう。けれど、Vtuberは良くも悪くも「ムラ」を作りやすい。だからこそ、文化の中のプレイヤーとしての配信者を外部から吸収し続けているし、リスナーもそれに応じて参入してきている。その意味で、企業勢というのは文化の内部を作る上で必須だったのかもしれない。ボイスを売るとかオリジナルソングを発売するとか、イベントを自発的にやるとか、そういう内部に通じるイベントを作り続けることが内部を維持し続ける必然的な条件だったのだろう。

では今後Vtuberはどのような進化を遂げるのか。バーチャルYoutuberはどこへ向かうのか。ボカロ文化のようにして衰退していくのか、あるいはその勢力を増して行くのか。

僕は一ファンとして、その勢力が増していく道を夢見たい。ボカロとの決定的な違いは企業勢にある。内部が強固であれば、その外部にいる人間の入り込む余地がある。そして、大事なのは「切り抜き」的なものである。外部からの参入を許す軽率なまとめ動画こそがこの文化を成立させている。Vの界隈の内部と外部を繋げる「切り抜き」という存在。それは良くも悪くも内部の者(=企業勢)からはコントロール不可能なものだ。本人の意図しないところで面白さが勝手に切り抜かれてしまうし、本人の意図しないところで事件性が勝手に切り抜かれてしまう(それは最近の桐生ココ/赤井はあとの一件でもわかる)。いくらか存在するVtuberたちは自発的に自分の切り抜き動画を制作しているが、それはある意味で、できるだけコントロール可能な「切り抜き」を増やそうとする試みである。その内部と外部の間の緊張関係にどのような影響を与えるのかわからないが、未だVの界隈は外部の目に委ねられている部分が多い。しかし、そこにこそ文化のダイナミクスがあり、面白さがある。僕はその面白さに惹かれている一人である。その緊張関係に委ねられたまま、Vの界隈は成長していってほしい。

(補遺)
ぼくははじめに第一原因としての経済的要因を議論の外に退けた。けれど、これは文化活動の必須条件である。Vtuberの多くはYoutubeの広告収入とスパチャの金額で収益を上げていると思われる。スパチャというのは、いわば「ムラ」の強度をディープなものにし、「推し」としての思い入れを強める効果がある。これはVの界隈をオープンなものにしてきた軽率な「切り抜き」動画とは逆方向のディープな思い入れに依る。ここからみるに、Vtuberはディープな根幹がないと儲からないシステムになっている。だからこそ、外部に開けた「切り抜き」と内部にある沼の深い「スパチャ」のバランスはしっかりと考えなければならない。このバランスが壊れた時、文化は経済効果を生み出す文化として成立し得ない。

















最後は信仰告白のような形になってしまった。僕はインターネットに自然発生したような文化がとても好きである。文化というのは「生きている」という感じがするものだからだ。そこには人々の生き様がそれぞれに記述される。そして、総合的にみて、衰退したり発展したりする。バーチャルYoutuberにこのタイミングでハマったこと、そしてリスナーを着々と増やしている統計を見るに、僕はVtuber文化が企業勢を通してボカロ的な進化を遂げていくことを期待している。将来を予測することはできない。けれど、希望することはできる。

文野環をよろしくお願いします。

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