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パッタイと自由(短編小説)

 いつも店でばかり食べていたパッタイが思いのほか楽に作れることに驚いた。なにせフライパン一つで完結してしまう。
 少なめのお湯を沸騰させて麺を入れる。水がほとんどなくなった頃に海老を投入する。炒めるうちに海老はじわじわと桜色に染まっていく。ある程度炒めたら調味料を絡める。
 調味料の中身が具体的に何なのかはわからない。スーパーで買ったパッタイの麺に付属していた調味料。必要なものがまとめられたそれは、フライパンにあけて間もなく、香ばしい匂いをさせる。慌てて火を少し弱め、溶いた卵を投入する。それからもやしとニラも入れる。炒めていくとパッタイが完成する。
 皿に盛り、砕いたナッツを振りかけた。これも付属品だ。なんと楽なんだろう。次々と炒めただけで異国の香りがする食べ物ができてしまった。これはもしかしたらカオマンガイなんかも簡単で美味しくできるキットが売っていたりするのだろうか。そう考えながら、皿をリビングに運ぶ。

 このマンションは、恋人と暮らすために買ったものだった。けれど彼女は一ヶ月前に出て行った。まさかあと一年で四十になるような歳で、独り身に戻ることになるとは思っていなかった。正直に言ってせいせいしている。これからは彼女の言うように「年甲斐もなく」ブラトップにショートパンツで脚を出したまま家の中をうろついても何も言われない。料理だって、好き嫌いの激しい彼女に合わせなくていい。ローンの支払いがかなり厳しくなることだけがネックではあったが、望むところだった。しばらくは自炊節約生活で外食を抑え、インターネットで大量の本を買わないようにする努力を続けなければならないが、きっとなんとかなるだろう。

 ソファーの上であぐらをかく。
「いただきまーす」
 手を合わせたところでスマホが鳴った。わたしは恨みがましい目でスマホを見る。液晶に祖母からの電話であることが表示されている。
「よしこちゃん、元気?」
「どうしたの、おばあちゃん」
「いいや、声が聞きたくてね」
「仕事はどう?」
「順調だよ。おばあちゃん、体調は大丈夫?」
「うん。このあいだ風邪をひいたから、ちょっと咳が残ってるけどね。もうすぐ治るでしょ」
「ならよかった」
「今テレワークっちゅうんが流行ってるってテレビでやってたけど、よしこちゃんのとこは?」
「週の半分くらいはやってるよ。今日も家で仕事してた」
「そうかいそうかい。それはいいね」
 祖母はなにか、言いにくそうにすこし口籠る。
「……よしこちゃん、元気そうでよかったけど、まあ、結婚は出会いあってのものだし、今は仕事に生きる人も多いみたいだからねえ」
 声が聞きたかったのは事実だろうけれど、もしかして、これが言いたくてかけてきたのかなと思う。私は少し考え、
「そうだねえ」
 とだけ短く答えた。
 視界の端で、パッタイが少しずつ冷めていく。

 祖母は『変わったもの』は食べないたちだ。刺身ならサーモンやいくらは食べず、青魚や貝を好む。パスタが主力の洋食屋さんに実家の家族全員でいくと、祖母だけいつもカレーを食べている。要するに彼女が若い頃から食べてきていたような、定番の和食が好きなのだ。もし祖母がここにいたら、パッタイの香りを嗅いだだけで嫌がるだろう。
 同じように、つい最近まで私が女と一緒に暮らしていたことを知ったら、祖母はたとえば私が納豆バターパスタを自作して食べていた時のように眉をひそめるだろうか。
 彼女の食の好みは実は祖母に近い。朝も昼も夜も、基本的には和食。つきあいはじめのころ、近所にロシア料理のお店ができたので誘ったら、頑なに拒まれたことをよく覚えている。ほうれん草のごま和えが大好きで、週に二度も三度も作る。葉物の値段が高く、安いときのほぼ倍くらいする時でも作る。祖母もほうれん草は好きで、手を変え品を変え、味噌汁に入れたり、茹でてじゃこと和えたりしながらよく食べている。そういう面だけ見たら、彼女と祖母はとても気が合いそうなのに。

 パッタイを食べたい気持ちが一秒ごとに募っていくのを感じながらも、祖父を亡くしてから数ヶ月で寂しいのだろう祖母の電話を切ることはできなかった。十分ほど喋ってから電話を切り、わたしは一つ溜息をついた。
「……よし、今度こそ」
 箸を持ち、パッタイを口に運ぶ。できたてのアツアツではなくなっていたし、少し麺がくっついてしまっていた。でも、十分においしい。タイ料理独特の調味料の味が、パッタイ独特の米麺にしみこみ、一方で海老のおいしさをひきたてている。ニラのパンチの効いた味を、相反するあっさり感のもやしが中和していて、いつまででも食べていられるような気がしてしまう。
「お店で食べてるみたい」
 そう独り言を言ってから、いや、と思い直す。店で食べるものもそれぞれの店の個性が出ていていいものだ。それにプロの味はまた違う。これまで食べてきたいくつかのタイ料理の店が脳裏に浮かぶ。食べにいきたい。ついさっき、しばらく節約が必要と思ったばかりなのでそう思うこと自体が少し後ろめたい。でも、ランチなら安いし。たまには。
 手帳を開き、しばらく眺めてから、次の出社日ところに「パッタイ」と書き込んだ。
 来週の楽しみがひとつ増えてしまった。


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