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敷かれたレールなんてなかったー「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。」

写真家の幡野広志さんの本です。

幡野さんのことは、はじめtwitterで知りました。たぶんcakesか何かの記事を読んだのがきっかけだと思います。この方の文章は読んでいてなんだか心地いいと思ってフォローをしました。世の中のありとあらゆるしがらみをいい意味で無視していて、心の中のかたちを丁寧に言葉にしているようなそんな感覚がしました。後から「写真家の方だったのか」と気づきました。

いくつか本が出ていることを知ったので、どれか読んでみようと思い、手にした一冊です。

この本では「家族」が一つの大きなテーマになっているんだと思います。「家族」には大きく分けて2種類あって、両親を含め自分が生まれるまでに命を繋いできた人たちと、結婚などを通して一緒に生きていくことを自ら選んだ人たちがいます。この「家族」というカテゴリの人とは、必ず繋がりながら生きていく。けれども、前者は自分で選ぶことができない。自分が生まれたときから両親や親族は決まっている。ゆえに、両親に苦しめられながら生きていく人、生きにくさを感じている人がいる。

自分の人生は全て自分で選択することができる。後者にあたる家族は、自分で選択することができる。なにも、前者に当たる家族が自分を苦しめるのであれば、その家族と離れるという選択をすることさえできる。だって、自分の人生の幸せは自分で作るから。作ることができるから、というよりも、作るから、の方がなんとなくしっくりくる。

自分で選択をするなんて、当たり前でしょう。と今思える自分はとても恵まれていることに気づきました。そして、悲惨な家庭環境に苦しめられている人たちがこの世に五万といるのではなかろうかということに、悲しいというかやるせないというか、そうかあ、と思ってしまいました。

わたしは数年前まで、どちらかというと自分の家庭環境は良くない、と思っていた人でした。しかし最近になって、そしてこの本を読んでさらに、自分の環境はまだ全然マトモだったことがわかりました。

暴力もないし、両親からとても愛されていると思うし、端から見れば普通の家族なのかもしれないけれども、やっぱり些細な窮屈さはあるのは事実です。たぶん、そういう「良さそうだけどどこかが歪んだ家族」って目立たないだけでかなりの数あるような気がします。その家族の話と、そこから少し抜け出した話を書こうと思いました。

両親が共働きであること

わたしの両親は共働きです。ここで話題にしたいのは、両親が共働きであることではなく、わたしが小さかった頃に多くの時間を共有したのが両親ではなく祖母だったということです。もちろん休日は両親と接する機会は多くありましたが、それでもわたしの生きた最初の20年弱は、祖母との世界が大半を占めていました。

わたしの両親は、今やっと気づいたことなのですが、すごく良識のあるというか、人間としてすごくちゃんとしている人だと思います。欠点はそれぞれあるにしても、わたしを苦しめることはほとんどありませんでした。20代後半になった今、それにやっと気づくほど、わたしの世界は狭かったんだと思います。

コミュニティの狭い田舎で育ったこと

わたしは高校を卒業するまで、周りが田んぼだらけの田舎で育ちました。市街地に出るバスは1日数本。近くの駅まで歩いて2~30分くらいの、そこそこの田舎です。近所の人たちは大方名前と顔が分かっていて、「○○さんちの○○ちゃんは××市役所に就職が決まったんだって」「□□さんは来月結婚らしいよ」というように、ライフイベントも噂でどんどん広まるような地域でした。地元の有名公立高校に受かれば鼻高、県内の有名国立大学に受かればステータス。卒業後は県庁、役所などの公務員か、もしくは教員や弁護士、医者になることが一番素晴らしい、みたいな考え方の人たちが多かったように思います。まあ、たいていの田舎ってそんな感じですよね…。

今でも、「○○さんがどこぞのIT企業のプログラマーだかエンジニアだかと結婚した、○○さんは病院で働いているんだから医者と結婚すればよかったのに」みたいな調子です。田舎における理想の人生は、いい高校といい大学を出て、地元でいわゆる「安定した職業」に就き、20代で結婚し子どもを産むことなのです。そしてそれをありとあらゆる人に求めるのです。

勉強ができることが大事だった

ということで、まずは「勉強ができる」ことが祖母にとっても重要だったようです。小学生の頃、100点ではないテストを持ち帰ると怒られたのをよく覚えています。なんて言って怒られたのかは全く覚えていないのですが、できなかった箇所を教えられることもなく、ただ点数が足りなかったことを責められました。たとえ99点であっても。幸いにも勉強は好きな方でしたし、素直な性格だったので、最初は100点を取るために一生懸命勉強しました。といっても、毎回100点なんて無理な話です。最終的には100点のテストと90点代のテストを持って帰り適度に怒られつつ、70点とかのテストはそっと捨てる、という技を覚えました。おかげで勉強はできるようになりました。

抵抗しても意味がないと思った日

わたしは小さい頃から絵を描くのが好きでした。そして祖母はなぜか、当時取っていた新聞が定期的に開催している絵画コンテストに、わたしが応募することを期待していました。期待、というと語弊があるかもしれません、「はい、次のコンテストの締め切りは○月○日だよ、描きなさい」という感じでした。応募すること自体は全然嫌ではなかったのですが、あるとき描きたいものがなくて応募したくないな、と思うことがありました。祖母には直接言うことができず、父を通じて応募したくないと伝えた結果、拗ねて自室に籠もってしまいました。

今回は応募しなくて済む、という安心感より、「大変なことをしてしまった」という気持ちの方が強かったのを覚えています。わたしの世界の大方を占めている人を怒らせてしまうことは、小学4年生のわたしにとってとても怖いことでした。

このとき、父から「理不尽」という言葉を教えてもらいました。応募したくないと伝えたことは間違っていないこと、受け入れてもらえないのは理不尽であること、わたしは悪くないこと。

救われた気がしました。わたしは悪くないのです。きっと、何も言われなかったら「わたしの世界の大半を占めている人を怒らせてしまった、わたしが悪いのだ」と自責の念に駆られていたと思います。

そこから、少しずつ「嫌なものは嫌だ」と伝えようと試しました。もうこの時点で、「祖母がおそらくこうしてほしいと思っているだろうということを想像して、先回りしてやる」ということに慣れてしまっていたのですが、やっぱりやりたいことをやりたいし、やりたくないことは誰に何を言われようとやりたくないのです。

しかし、祖母は反論されたり何か気にいらないことがあると、拗ねてしまったりヒステリックになってしまうのです。話し合いができないのです。ここまでくると、怖いと言うよりもめんどうくさくなってきます。ああ、これが理不尽なんだと。だんだんと「嫌だ」と伝えることさえめんどうくさくなってきました。どうせ聞き入れてもらえないならば、伝える意味がない。こうして、再び先回りして祖母の想定通りの行動を取るか、嫌なことを言われても反論することなく、まるでお経を浴びているかのように聞き流すという技を身につけて乗り切りました。

しかし、言われてばっかりではストレスが溜まります。中学生くらいになると、お経を浴びてもそれに反論したい気持ちは募っていくばかりでした。本人に直接伝えても逆に面倒なことになることは分かっているので、あとで自分の考えをまとめてノートになぐり書きする、という日々を過ごしました。黒歴史ノートですね。笑

こうして、嫌なことがあってもいったんその場で受け流すこと、後でふつふつとわき起こるストレスや怒りや悲しみをなんとか処理するような癖がつきました。余談ですが、悲しきかな、今でもこの癖は残っています。嫌なことを言われたとき、一旦思考が停止してしまうのです。一旦停止した後に、相手が言ったことや自分の感情、反論したいことが文字になって頭のなかを駆け巡る。相手に伝えたいことを全部頭の中で文章にするけれども、それは言葉となって出てこないのです。嫌なことは言葉にして伝えた方がいいことは分かっているので、信頼している人に対しては、頭の中で文字を駆け巡らせた結果、ゆっくりちゃんと伝えるように心がけています。ですが「この人はこんなことを伝えたらどう思うんだろう」と一度不安になってしまうと、たとえその人から嫌なことを言われてもただその場をやり過ごし、ニコニコしながら適度に距離を取ることにしてしまうのです。

敷かれているレール

わたしの両親は教員です。物心ついたときからなんとなく、わたしも将来は教員になるものだ、と思っていました。なりたい、というよりは「なる」という言葉の方が近いです。家業を継ぐような感じに近いのでしょうか。

父は数学の教員でした。そして幸か不幸か、わたしも数学が一番得意でした。そしてなんとなく、数学の教員になるのだ、と思っていたのです。今思えば、父に「数学の教員になれ」なんて一度も言われたことはありませんでした。「教員になれ」も一度もありません。それなのに、数学の教員になることを期待されていると勝手に思っている自分がいました。両親も祖母も、わたしが数学の教員になろうとしていたことは知っていて、それをとても喜んでいることは分かっていました。毎月のように父は、新しい数学の参考書をわたしのために買ってきました。今思うと、両親は「教員になろうとしていること」を喜んでいるのではなく、「自分のやりたいことを見つけてそれに向かって進んでいること」に喜んでいたんだろうと思います。

小さいころから100点を取るように仕向けられ、「将来は教員か医者」と言われて育ち、「立派な」父親と同じ数学の教員になることを期待されている。用意されたレールを走らされているような感覚さえありました。その反面、期待に応えたいという気持ちがあったのも事実です。いや、期待を裏切ってはいけない、の方が近いのかも。

高校3年生の夏、進路選択の時期になり、大学の数学科に進むことに違和感を覚えました。数学は得意だったし、教員になろうと思っていたけれども、わたしがなろうとしている教員像は「数学ができる教員」ではなく「生徒の人生を一緒に考えられる教員」でした。大学で学びたかったのは、数学ではないと気づいてしまいました。

「教育心理学」という学問があることをこのとき知りました。これだ、と思いました。と同時に、なにかが吹っ切れたのか、「別に数学の教員じゃなくてもいいじゃん」と思うようになりました。「教育心理学」は文系の学部だし、英語の先生の方が授業も楽しそうだし、大学でも楽しそうじゃない?なんて考えを巡らせていました(当時、社会と国語は苦手だったので)。

ただ、周囲に「数学の教員になる」と期待されていた(と勝手に思っていた)ので、このタイミングで「やっぱり進路変えます」と伝えるのはかなり勇気のいることでした。期待を裏切ってしまうことになるかもしれません。

結果、あっさり受け入れてくれた両親には衝撃を受けました。あ、全然大丈夫だったのか。悩んでいたのがアホらしく思いました。両親としては、本人がやりたいことを選んで頑張っているのであればそれでよかったのです。祖母は、家から通えない大学になることがあまり気に入らない様子がありましたが、その他の反応はあまり覚えていません。

自分で決めていくこと

無事行きたい大学に入学し、一人暮らしが始まりました。それはそれは、今までの生活とはうって変わって、なんのしがらみもない生活でした。自分で自分のやることが決められることがこんなに幸せだとは。よく、一人暮らしの子どもや孫に対して頻繁に電話をしたり、突撃訪問をしたりするような親族の話を聞くこともありますが、わたしはそこまでのことはなく安心しました。

進路選択で自分のやりたいことを両親に伝えられたことは、大きかったんだと思います。その後も、「留学したい」とか、「やっぱり教員やめて企業に就職したい」みたいな話を、両親に話すことができました(し、「自分で決めて自分で責任もってやりなさい」という両親のスタンスを理解し始めていたので、事後報告でしたし、わたしが決めたことに対してNoと言われることはありませんでした)。中には「親から公務員になりなさいと言われている」「卒業したら地元に帰るように言われている」と困っている友人も少なからずいたので、この頃から両親の元で育ったことを感謝するようになりました。

極めつけは同棲と妊娠の事後報告です。同棲をするにあたって両親と揉めている友人の話を聞いていたので、「同棲していて妊娠しました。そして結婚することになりました。」なんて、一体どんな反応がくるのやらと不安に思っていました。が、開口一番に体調の心配をしてくれたり、お金なんてどうにかなるわと励ましてくれたりと、これまた拍子抜けしてしまいました。本当にありがたい話です。

数年前までは、祖母からは「いつ教員になるのか」とか「いつ地元に戻ってくるのか」と聞かれることはありましたが、今はもう諦めてくれているようです。たまに「あなたのお母さんは、あなたに地元で教員になって欲しいと思っているのよ」なんて遠回しに言われるときもあります。今となっては母の想いを理解しているので、それは母ではなく祖母自身の願いであることを理解できています。逆に今まで、こういう言葉の積み重ねがあったことで、両親が敷いたはずのないレールが出来上がり、それをわたしが走らなければいけない、と思い込んでしまったのかもしれません。学生時代のわたしの両親像の8割くらいは、わたしの祖母の言葉からできているのかもしれない。両親が敷いたレールなんて初めからなかったことに今気付きました。

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ここまで祖母を悪いように書いてしまったけれども、なんだかんだ言って難しいのは、彼女のことを嫌いではない、というか嫌いになれないことです。一つ一つの言動に対して、嫌だと思うことはもちろんあります。それでも、誕生日には連絡をしようかなと思うし、実家に帰るときは好みのお土産を買って帰ろうと思ってしまいます。それは、20年弱の間絶対的な存在だった祖母から完全には抜け出せていないのか、彼女の機嫌を取っておきたいだけなのか、はたまた純粋な愛情であるのか、自分でもよく分かっていなくて今でも困ってしまうのです。

両親から暴力を受けている場合でも、両親を愛してしまう子どもがいます。例が極端かもしれませんが、それにちょっと近いのかもしれません。結局子どもは両親(わたしの場合は祖母)を愛してしまうのです。かつ、いろいろな窮屈さはあったけれども、幸いなことに祖母から愛されて育ってきたのも分かっています。たぶんそういう、愛されているけれど窮屈な家族って実はたくさんあって、愛情を受けて育ったからこそ、子ども側がそこから離れようとすることってかなり難しいんじゃないかと思ってしまいます。愛があるからこそ、「親に育てられたんだから感謝しなさい、親孝行しなさい」みたいな長老たちの言葉を否定できず、両親の望むような生き方をしてしまう。子ども側から離れることは難しいけれど、この本の「離れる、という選択が自分の幸せに繋がるのなら、そうするべきだ、だってあなたの人生でしょう」という、新しいけれども至極真っ当なメッセージが、渦中の人の肩の荷をちょっと下ろしてくれるような、そんな感じがしました。





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