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「青信号」は本当に「青信号」なのか?

「青信号といいながら、実際は緑だ!」

というような話をしたいわけではなく、青でも緑でもいいのだけれど、あの進んでもいいよを意味する信号を見ているとき、わたしは本当に進んでもいいのだろうかと考えるときがある。

なんのことだかよく分からないと思うので、もう少し噛み砕くと、わたしが青信号を見ているとき、それは本当に青信号なのか分からなくなるのだ。

さて、いよいよ分からなくなってきたのではないだろうか。

「自分が青信号だと認知している」ことと「本当に青信号である」はどうやって同じであると証明されるのだろうか。

もしかしたら、ある朝突然、色相感覚が逆転していて、青信号を見たら、赤に見え、赤信号を見たら青になっているかもしれない。でも、それは、自分では確認のしようがないのだ。だって、わたしはどう考えても青信号を見ているのだから。

信号

でも、もしかしたら、これは、わたしが青信号だと認識しているだけで、実際は赤信号だったら?と想像するだけで、不思議な気持ちになってくる。

「本当に進んでいいのだろうか?」「周りの車が進んでいるから、進んでもいいのか。」「でも、この周りの車も錯覚だったら......?」

まあ、そんなことを考えているドライバーは危ないので、わたしはこの思考のスイッチをオフにして運転しているのだけれど、ふと信号待ちをしているときに思い出してしまうのだ。

実存と認知の話は、我々が世界内存在であるが故に、議論しても終わりがないので、この言及は省略するが、常に、わたしは、自分の認知はあくまでも認知であると言い聞かせて生きているように思う。(ちょっとめんどくさいときもある。)

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ふと、ここで、悲惨な事件について思い出した。

京アニ放火事件の青葉容疑者が、95%の死亡率だったところからから生還したニュースを目にした。

この医師のことばが本当に質量を感じるひとことだと思った。

ニュースのコメント欄では、「死ねばよかった。」「どうせ死刑なのに、なぜ助けたんだ。」などのことばが飛び交っていた。

わたしは、彼に同情するわけではないが、彼の育った環境は、この文面を見る限りでは、いわゆる“親ガチャ”としては、ハズレだったのかもしれない。

「他人の私を、全力で治そうとする人がいるとは思わなかった」

だから、彼が放ったこのことばは、深部に刺さるひとことであった。

“認知の歪み(irrational thought pattern)”という心理学用語があるが、まさにそれを体現しているのではないだろうか。

彼の中にはこれまで、「他者」は存在していなかったのだ。すべて自分の認知がつくりだす、「自分-他者(仮)」みたいな者しか存在していなかった。ある種、とてもエゴイスティックである。

やまゆり園の事件でも、「役に立つ命」「役に立たない命」という分類がじくじくと触れたくない傷口に染みた人もいたのではないだろうか。役に立つ命と役に立たない命なんてものが、実存しているわけではないのに、どこかでそう認知している人だって少なくないはずだ。

これらに共通している、「認知」というものは、とても厄介である。火垂るの墓で、せつこがおはじきをドロップだと思って誤飲したのも、認知の歪みである。

「自分-他者」はめちゃくちゃ怖い。気づかないうちに、敵になり、突如自分を抹殺しにかかってくる。

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ここで、もう一度、青信号の話に戻ろう。

つまり、わたしが恐れていたのは、「自分-青信号」であるだけで、本当は、赤信号なのかもしれないことである。

だから、「青信号」や「他者」はどういうものなのかについて、今一度知らなければいけないし、見えないもの、遠きものを見てみたいし、見方を学び続けたいと思う。


わたしたちはそろそろ自分探しを中断し、他者を探す旅に出るときなのかもしれない。理性をすこし傍に置いて−−。

友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。