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オールドレンズのような人生を歩みたい。

「ちゃんとしなきゃ。」

そう思いながら踠いてきた20年だった。

弟がいる長女として、ちょっと頭がよさげな大人びた娘として。

地方から、初めて東京に出て、多様な生き方や価値観を知った。

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これまでも、価値観が変わるというと、海外には何度も行ったけれど、やはり東京という街に長期的に住むことで見える世界があった。

そんな東京では、地方で育ったわたしにとって、いろんな物事が多様すぎて、「ちゃんと」つまり、善と悪がよく分からなくなった。

つまり、自分が「ゼロ」になった。

ホームレスを経験して、ホームレスの生き方、クリスチャンの友達ができて、クリスチャンの生き方、超お金持ちな友人ができて、富裕層の生き方...etc とにかくいろんな価値観に触れていたら、どこから見るか、どんな信念や分類を自分の中に持つかで正義なんていうものは簡単に揺らいでしまうことを知った。

常に、ちゃんとしなきゃいけない、親を困らせてはいけない、ちゃんと、ちゃんと、ちゃんと…。

でも、いざ、親から離れてみて、故郷から離れてみて、自分のちゃんとの基準が崩壊した。

為す術もなく、目の前で崩れ去る、自分の正しさや善いという価値観。

勉強すればするほど、これはあくまでも、「〇〇さんにとっての正しさなんだな」、とか、「〇〇という宗教にとっての善い行いなんだな」とか。

「ちゃんと」ってそういえばなんだっけ?

そんな時、ずっと続けている趣味である写真から学んだことがあった。

写真に例えると、ぴたりとピントが合っている、そんな一枚がちゃんとしている写真なんだろう。

ピントのあまい、独特のボケがつよい、そんなレンズ、オールドレンズを使っているわたしは、ちゃんとした写真を撮れない。

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いや、違う、ちゃんとした写真を撮らない、そんな独自性に惹かれている。

ちゃんとするというのは、ある一定のコード上では、間違いがなく、正しく見えるけれど、それは、そこに走っているコードが前提にある。

前提をどこに置いているのか、自分の信念の出所はどこなのか。

そんなことを知ってゆきながら、どんどんピントは曖昧(アイロニカル)に、たくさんボケて(ユーモア)、独自のコードをつくってゆきたい。

だれからも指標化されない、そんな世界をオールドレンズから覗く世界が教えてくれた。

一般的に、曖昧なことやボケ(老化)は、マイナスなイメージがあるけれど、それは独自性に繋がる。

そんな風に、時間の流れを拒まず、気づけば味がでていた、そんな人生を歩みたいと思ったのでした。

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友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。