見出し画像

第10章 戦争の世紀 第1節 RMA “Revolution in Military Affairs”

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革

第10章 戦争の世紀
第1節 RMA “Revolution in Military Affairs”
第2節 戦争論―戦争の正当性革命
第3節 地政学理論の萌芽―地図が起こした革命
第4節 世界大戦―伝統的地政学の集大成として昇華
第5節 日本の戦争―所与の国家=島嶼国家としてのアイデンティティー欠落の愚挙

第11章  戦後処理
第12章 冷戦後の世界

はじめに

 RMAの日本語訳は「軍事上の革命」である。RMAは、戦争が社会を変革し、また社会が戦争を変えてしまうその相互の現象を言い、戦争の本質/軍事力の役割/技術転移/戦術/戦略/国のかたち/文化に関わる連鎖を誘発、将来を洞察、手立てを講じる重大要素である。またRMAは軍事力を行使して、あるいはその威圧をもって国の政治体制の転覆を図る革命 “Military Revolution” とは異なる。

 RMAという意識の発端は1955年、マイケル・ロバーツが英国ベルファスト・クイスウェーデーンズ大学就任記念講演で『1560-1660年の軍事革命』と題し「スペインの覇権に対峙したスウェーデン国王グスタフ・アドルフⅡが行った軍制改革」を語った時である。しかしそれは、確かにマイケル・ロバーツが指摘する30年戦争がRMAを掘り起こすに顕著な戦争だが、同様のRMAは戦争の起源から繰り返し起きている現象でもある。

 2000年に入り、アメリカにおいて「RMAは戦争の様相を変える兵器技術」に特化して定義づけられたが、それをイギリスのマイケル・ハワード卿(1922-2019)、アメリカのウィリアムソン・マーレー(1941-2023)、あるいはジェフリー・パーカー(1943-)は次のように批判した。

 イギリスの軍事史学者で、国際戦略研究所(IISS)名誉所長を務め、第2次世界大戦従軍の経験を持つM・ハワード卿は著書 “War in European History”(1976)『ヨーロッパ史における戦争』(1981年日本語訳奥村房夫)において、「戦争は技術によって変革されていくことのみに注目するのではなく、多角的な視点を持つべきである。戦争によって社会がインパクトを受け、戦間期における社会の変革を受けて戦争が進化して来た。その連関は繰り返し、変革と進化を必然としてきた」そして「単なる戦争の術ばかりでなく一千年にわたる戦争制度を研究することと戦争行為の発展に拘泥するのではなく、その時代を通じての技術的、社会的、経済的変化と戦争がどのように係わっているか、影響しているかを跡付けることが重要であった。ハンス・デルブリュックがいうように、その枠組みは、政治史だけにとどまらず、経済的、社会的、文化的枠組みに及ぶ。戦争は人間の経験全体の一部であり、その各部分は互いに関係付けることによってのみ理解できる」と指摘している。

 アメリカ・オハイオ州立大名誉教授であったW・マーレーは、米国が21世紀に目指すRMAについて技術偏向を危惧し次のように警告している。
「RMAは、”Military Revolution”とは異なる極めて広範に及ぶ分野で人間の想像力と洞察力によってもたらされた四つの特徴を持つ現象であって、第一は、技術という文脈だけでの変革ではない。技術は軍から民へ “Spin-off”、民から軍へ “Spin-on” の作用が必至である。また第二にRMAは戦争の本質と密接不利であって、さらに経験・実験・演習・実践の繰り返しで有効性を確認できるものである。第三にRMAは現実の特定脅威に対する特別の作戦・戦術・技術開発、そして実戦から発生する。従って、第四にはその戦争の本質が『RMA自体が戦略ではなく、RMAは戦略に従属して成立する現象である』ことを示唆し、戦いそのものが戦争を支配するという錯覚に陥ることなく『戦いの結果が戦略上の目標である』ことが究極の目標となる」

 “From the House of Orange to the House of Bush : 400 Years of “Revolution in Military Affairs” を著したアメリカの軍事史学者であるJ・パーカーは、2002年の軍事史学会の基調講演で、「技術偏向のRMAは空間や時間が『点』でしかない」と指摘、「最近ペンタゴンにおいては、精密化される軍事的暴力行為に対抗して、それに優越する高度、精密な対処と称してシステムの集合再編成や、プロセスの再構築、通信構成の改善など、所謂、”The Office of Net Assessment(ONA)”という文脈でRMAを捉えている。RMAは、”Military Revolution”とは異なる概念があるはずであって、ペンタゴンのONAは本来のRMAと乖離している。過去、軍事的に決定的な変革が生ずると、敵方とは非対称性が際立った。それらの変革や効果がどうして、如何にその現象を生じさせてきたのか。例えば、日本の織田信長が長篠の戦い(1575)において採用した小銃戦法 ”Volley Fire”(連続射撃)は ”Military Revolution”であって、そこからRMAが導かれる」と述べた。

1 何故RMAを取り上げるか

(1) 古代史に見るRMA現象

 RMAは、戦争の本質、軍事の役割、軍事技術の発達、軍事作戦上の戦略・戦術、そして国家の各種分野における戦略組成、それらの結果形成される「国のかたち」、「文明」に係る多岐多様な連鎖を誘導してきた。
 当然に地理学的文脈において地球を広げ、また他方で移動の速度を驚異的に高速化して距離感を縮小して地球を小さくしてきたことも確かである。
 そしてそれらが、戦争と戦間期を通して現象を進化させ、将来を洞察し、国際社会を導く重大要素となっていた。しかし残念ながら「洞察」が「非戦の指標」とならず、戦争をエスカレートさせてきたことも確かであった。

 ここでは「RMA現象」を古代史から例を挙げて理解を補完する。

 ペルシア戦争(BC492-BC449)では、数十万のペルシア軍団が一千キロメートルを超える行軍を行ってアナトリア半島を北上、バルカン半島を南下、ギリシアに攻め入ってマラトンやプラタイアで戦い、数百隻の三段櫂船がエーゲ海を横切りアテネ近傍サラミスまで遠征して大海戦を行いことごとくギリシアに敗戦して撤退した。他方で、戦闘船の兵装だけではなく、当然、地上における兵站輸送、何千キロにもわたる超長距離行軍に必要な戦闘員の個人装具も発達し、往復を考えれば、宿泊給養などを受け入れてくれる第三国経路地域との良好な関係構築という後方管理の必要性も発生したはずだ。
 また戦争によって生じたニーズは、戦争が無い時代の陸・海上交易輸送や市民が長距離を移動することに転用され「ヒトの広域活動」、「サービス提供の商売」、「移動の利便性向上のインフラ整備」、「中継港湾整備」などのRMA現象につながって行った。

 紀元前15世紀から紀元前8世紀にかけて地中海の制海権はフェニキアの民が握っていた。フェニキアの都市国家カルタゴを出たハンニバルは優れた造船技術・航海術を利しアフリカ象の軍団を率いてイベリア半島に上陸、アルプス越えしてローマに迫った。第二次ポエニ戦争(BC219-BC201)である。

 アレクサンドロスⅢの東征(BC332-BC343)は、家庭教師であったアリストテレスの教えがあって「地理学的・地政学的」な思考と「遠征経路における地理学的踏査」は「遠征における戦闘と統治」に整合されていた。征服した地域の民族性を尊重するなど、ペルシア帝国の征服地に対する委任統治を継承しつつアレクサンドロスⅢの影響力を強めて行った。それは、現在アレクサンドリアと名付けた都市作りに遺っている。
 さらにアレクサンドロスⅢの東征はギリシア文明とペルシアの古代オリエント文明を結ぶ融合文明「ヘレニズム」を生みだした。ヘレニズムは、ラッツェルが『人類地理学』で言う「ヒトの移動が融合・衝突をもたらす」実に ”Geopolitik” な現象である。

 中国史の始皇帝に共通する記述として「BC221年、中国において秦王政が群雄割拠を勝ち抜き中国統一を果たした」とある。しかしその直後から統一事業が行われたのであって、正確には「中国統一」はさらに時間を要したのである。正確な記述は「戦国七雄の六雄を打倒、戦国時代に終止符を打った秦王政は始皇帝を名乗り中国の統一事業を進めた」であり、BC210年、「始皇帝は統一事業を完整して逝去した」と記されるべきではないか。

 中国春秋時代、諸子百家と呼ばれる学者が存在した。諸子は孔子・孟子など学者を指し、百家は儒家・道家などの学派を指して言い、喧々諤々(けんけんがくがく)の論争を行うという風景があった。これを百家争鳴と称し、学者は、国家の生存理論や戦争の戦略戦術・兵法、あるいはヒトの道を説くなど、国家がその学者その説を採用すれば生活が成り立つ生業(なりわい)となっていた。多くの兵法家ら学者が、有力な国主に採用されようと弁舌を奮い諸国を遊説して回っていた。『孫子の兵法』もその一つであった。

 このような時代、始皇帝は諸子百家から「度量衡の統一・兵農一致の軍事体制・法令/中央集権国家形成」を主張する法家の商鞅(しょうおう)を採用、中国統一事業に反映させた。戦車の軌道に合わせる、あるいは軍勢を一時に多数移動させる幅員の拡張など軍事的目的をも兼ね、インフラの規格統一が成され道路、あるいは城砦・長城などの土木建設が進められ中央集権に拍車をかけた。中央から郡県の長を派遣する中央集権・度量衡の統一・法律/税制の徹底・徴兵徴募・隷書楷書の標準化などの促進がそれである。

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を総じてアブラハムの宗教という。神がアブラハムに息子イサクを生贄に捧げるよう命じたが、イサクを屠(ほふ)る直前にアブラハムの信仰心を認め星の数ほどの子孫繁栄とカナンの土地を与える約束をした。これがアブラハムの宗教の始まりである。その宗教人口は世界人口約81億人(2024年現在)の約55%余りである。
 この三つの宗教は、それぞれの宗教誕生の根源を同一神とし、それぞれが共有する聖地を持ちながら互いに敵視、対立し合い、それぞれを国の宗教とする国家間が、しかも同一の神の下で信者同士が戦争し、実に大量の殺戮・破壊がアブラハムの宗教信者間で行われて来た。このアブラハムの宗教が蒔いた戦争の種子は、今日に至っても所構わず絶えず地球上に発芽している。

(2) RMAの正と負

 アブラハムの宗教におけるRMAは「ユダヤ戦争(66-73/131-135)・レコンキスタ(718-1492)・十字軍の遠征(1096-1303)・30年戦争(1618-1648)・征服者の大航海時代(1415-1648)・”Manifest Destiny” を掲げるインディアン戦争(1622-1890)・9.11同時多発テロ報復戦争 “War on Terrorism - CRUSADE”(2001-2021)」など人類の平和・繁栄・安定にとってマイナスの殺戮・破壊という現象を繰り返して来た。

 わずかな「正の部分」は文化である。書画・彫刻・建築・医療・衣食住・教育・福祉などなどの先進性の普及は、宗教の持つ超国家性故に地球上隈なく伝搬した。

 同様の ”Geopolitik” 現象はシルクロードにおいても顕著である。紀元前2世紀始めに漢王朝がユーラシア大陸の東西を結ぶ交易ルートを西へと伸ばし、さらに中央アジアの王朝パルティアの隆盛で現在のアフガニスタン・アナトリア半島に至り、地中海を経てギリシア、ローマへの接続が可能となった。
 東の中国、西のローマが接続され、火薬・兵器・印刷技術・羅針盤の入手がRMAを促した。別けても羅針盤の普及はインド洋・地中海の造船・航海術、船団形成・船団護衛などを進め「海のシルクロード」発展に寄与した。

 クラウゼヴィッツは、『戦争論』においてこのようなRMA現象を「戦争は、停滞することなく連続連鎖して戦争と市民社会の現象を進化させ、その進化は、戦争を含む社会的現象を複雑多岐に拡散拡大、反復させている。軍事史から戦争を俯瞰すると時代精神や技術が重大且つ独立した要素として戦争を左右していることが分かる」と述べている。

2 RMA再確認

(1) 戦争の正当性のRMA

 アブラハムの宗教において「聖戦」という名の正当性は唯一神が保証した。それが “Manifest Destiney” 「神が示した(啓示)運命」であった。即ちカトリックの場合、ローマ教皇が正当性を付与し、イスラム教の場合は指導者が教義を解釈し、ユダヤ教の場合はタナハ(旧約聖書)から読み解いた。

 ところが、『戦争論』においてクラウゼヴィッツはナポレオン戦争から「戦争は他の手段をもってする政治の継続」と位置付けた。これに拠って戦争する側は敵味方双方が「戦争の正当性」を主張できるようになった。たとえテロリストであっても9.11同時多発テロ発生時、G・ブッシュJr.米大統領が「対テロ戦争宣言」を行って以来、「テロは犯罪ではなく戦争行為」と考えられるようになってしまった。加えて現代の戦争では、人道上の理由が正当性を後押しするRMA現象を提している。

(2) RMAが陥り易い錯覚

 アメリカのRMAに関わる誤解が生じたのは湾岸戦争(1990-1991)であった。兵器技術の
圧倒的優勢が勝利の鍵であったと評価が行われ、欧米の軍事技術優勢への自信による「技術が戦争を支配する」意識によって「RMAは技術をもって万能の技術的現象」という誤った概念が生まれた。

 その誤解が証明されたのは、圧倒的有利な兵器技術をもってしても戦争を勝利に導けなかった現実であった。米・仏のベトナム戦争敗北、アルジェリア、ソマリアにおける紛争を鎮静化できなかった結果も同様に技術が勝利を決定するとの主張を退けた。

 核爆弾(核兵器)は日本へ投下のみであった。これほどに圧倒的破壊力を有する先進兵器が他の戦争で使用されないのは何故か。少なくとも冷戦下において核兵器使用は神への背徳・冒涜・非人道の極みとしてRMA現象に導く現実的対象と成し得なかった。

 第2次世界大戦においてドイツの電撃作戦における戦車戦の勝利は技術より教育訓練が高く評価された。湾岸戦争では「空軍が戦争を支配」すると錯覚を与え、結果として技術だけでは戦争目的の達成との乖離が生ずるだけであった。その結果、イラク、アフガンでは成果無く撤退につながった。

 日本の場合はアメリカ追随型の軍事思潮があるため、2000年代当初の「米国防報告」で概念形成された「技術に特化したRMAが戦争を有利に導く戦略的手段」を採り入れた。アメリカの誤解を直輸入した結果、『2003年度防衛庁防衛白書』の略語索引における「RMA」は「技術進歩などの変化により、軍事作戦や戦争そのものに生ずる大きな変革のこと」および「米国の軍事的優位に立つための軍事技術中心の変革努力を指す技術分野の革新」と定義された。

3 近代国軍のRMAに関わる課題

 今日のRMAの課題は技術の偏重によって人の感性が有する長所が喪失し、武器使用が逡巡や迷い無く簡単に行われ、いったん始まった戦争は留まることなくエスカレートの一途をたどるようになり、しかも非戦闘員の犠牲が顕著に増加するようになった。
「ボタン戦争の時代」と言われたことがあるが、技術の発達は死節時間を極力排除するようデジタル化リアルタイム化が進んだため、「思いとどまる」という感性が喪失され、戦争に突き進む制御が利かなくなっている。

 徴兵制は「命令と服従」の強制が繰り返され、号令に無意識に反応するサブコンシァスネスが育てられ、国軍の「国家に対する忠誠・支配者に対する忠誠」の無意識化が存在した。
しかし徴兵制度から志願兵制度への変化は、「忠誠という時代精神」が「職業意識」に変化、さらに「命令を拒否する」事例も発生、しかも合理性や妥当性がある「命令」に服従することが原則化され、「戦い難(にく)い『指揮官と部下の関係』が常態化」する現象が生じている。

 戦争法規は「戦争の実体」が国際秩序ではなく固有の秩序に支配され「ルールなき戦争」が現実である。それは、軍事と市民社会の境界を喪失している現実にも通ずる。今や戦争において「宣戦」、「戦場」、「兵器の選択」、「戦闘員と非戦闘員の別」、「殺戮破壊目標の選択」、「捕虜の取り扱い」、「終戦宣言」、「保障・賠償」、「講和」など、国民国家の「伝統的戦争(通常戦争)の枠組み」が消滅している。

 今日、日本にとって最も認識すべきRMAは、開戦に予告や予兆無く、突如戦争状態に陥る時代になったことであり、島嶼国日本においては四周環海であるため、空中、海上、水中からの攻撃が突如行われる蓋然性が高くなっている。四周環海は防御壁ではなく潜在する脅威に満ちた環境となっている。