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落涙とイマージュと射精



あんまりよく覚えてないけれどクレヨンは空色がすきだった。

昔、僕はずっと自分のことを女だと思い込んでいた。鏡に映る男の顔面をそれが自分自身だとはとても信じられなくて、だから鏡のことを一切信用していなかった。それで僕は自分の顔を一度も見たことがないんだと母親に言い張っていた。

鏡という存在のまだ認めてないその時期、僕は僕自身のことをずっと、今よりずうっとよく知っていた。

その日、土砂降りの春の雨がやんだ。

園庭には水たまりがある。
僕はそらいろのクレヨンを濡らして自分の髪をうすいブルーに染めていた、南平幼稚園のジャングルジムの中。
僕は楕円の水鏡に自分の顔を映してみた。
その0.5秒の心象を今でもすべてはっきりと記憶している。
僕は、ないたから。2秒後には嗚咽していた。でもなんもかんじない。かなしくない。どこも痛くないし、なんにも、なんにもおもわない。

僕はあのとき、驚いていたのだろうか?  

頭の中に描いていたあんまりに美しい青い髪の少女とその映ったえたいのしれぬ醜形の、差に?

それは、思い出せない。でもあのときの心の機微を20年経っても忘れられない。
感情というのが、さながら、身体じゅうからすっと、ぼわっと、失われきったみたいに、空っぽであった。

なんでないてるの?

すこし太った女の子が、僕を見下ろしていた。

僕は、園庭の遊具のそばに座り込んで、女の子に説明する。

「これはね、
僕なんだけど、僕じゃ、ないんだよ
僕はね、頭の中にね、しってるんだよ
頭の中にいろいろあってね、
それが僕なの、それがね、僕なんだよ
その中にはね、みんながいて、ママや、パパや、凌や、あーねーちゃんや、あず姉ちゃんや、君や、君のばあちゃんなんかも、いるんだよ
僕には、わかるよ
そういうのぜんぶね、ぼくのことなんだ、
そうだって、わかるんだよ
そういうのがね、へんなの、
なんかね、へんなんだよ、
だって僕の顔、ちがうよ   こんなじゃ、ないの
ぼくは、やなの
ぼくは、それが、やだ」


僕はそのとき生まれて初めて泣いていた。
正確にいうと、母以外の女の前ではじめて泣いた記憶の原初である。

それから脈略は全く思い出せないが、僕とその子は何か遊具に挟まれ合って、互いの股の間に固い突起部分を擦り合わせて、もぞもぞと動かし合っていた。時折、ちいさな性器が棒の端でぶつかり合い、女の子は口をうっすらと開けながら、僕は泣きじゃくりながら、すぐ、下半身におぞましい震えがあって、おしっこが漏れるときみたいに、お尻の穴と、腰と、腿の内側から、股にかけて凄まじい電撃が走りぬけた

何が起こったのか。今思うと、あれは精通だった。
しかし未発達な性器から液体が出ることはなく、握りしめすぎてくちゃくちゃになった空色のクレヨンが指の間で溶けていた。
とにかく怖いとか、寂しいとか、そういう感情の飛躍はまるでなくって、なんと言うか、とてもやさしかった
僕の体の周囲を吹き抜ける風や、ざわめきや、皮膚を覆う疲れや、そういう僕の周辺の何も彼もがしんだように優しく感じられて、感情の立ちこみというのがないままに、静かに狂ったみたいに、涙というのがとまらなかった

なんでないてるの?

女の子がそう言った、ような気がしていた
でもあのとき女の子は、事が終わると、逃げるように走ってどこかへ行ってしまった。

ぼくは何で泣いてるんだろう?


「わかんない、どうして泣いてるのか自分でもわかんないよ」


芽衣というその子は、僕にそう言って床にはだけだセーラー服の胸ポケットからハンカチを取り出した。

あれから10年経っていた。夏だった。僕は14歳だった。
天窓から青白い光がオルガンの白鍵とベッドの端に落ちている。僕は芽衣の実家の壁の排水管を時間をかけてのぼって、2階の部屋の窓から彼女に会いに行った。もう夜中で、隣室からは芽衣の兄が何かテレビを見ているような音が聞こえていた。

僕も芽衣も病的に依存し合って、なんども離れようとしたけど身体が言うことを聞かなくて、どちらかの実家か公園かで疲れ果てて寝落ちるまでセックスをして、朝になるとマリファナをやって、熱を完全に鎮静させてから学校へ向かうというのを繰り返していた時期だった。

その日の朝方、何の合図もなく唐突に芽衣が泣き出した。最初、僕は芽衣が泣いていることに全く気付かずに夢中だった。
肩に冷たい感じがあって、唾液か汗が垂れているのかと思っていたがふいに、黒く焼けたようにぐちゃぐちゃに濡れ尽くした彼女の顔を夜目にみとめて、僕はそう聞いたのだった。

「ねえ、やめてよ
何でもいいから、なんか答えて欲しい

芽衣は、何も言わない。
不自然に正しい沈黙が、壊れた時計みたいだと思う。眼球が光で濁って、波濤のように濡れて騒がしい。

「不安になるから、やめて。何で泣いてるのかを教えて。俺が何かしてしまったの?
ねえ、なんか話してよ、いやだよ、
話してくれないと、わからないよ、わからないよ、だって、分からないじゃないか

両の目に僕が映ってる。両の目に僕が映っている。夏の夜更けに目が醒めてしまったときにだけ出会える洗面所の鏡の透明色した反射光。

「ずるいよ、そんなの、ずるいよ

そのとき僕は10年前の春の午後のことを思い出している。

あのとき、風景はまだ僕の下にあった。
それらは意味というのを持たされる前の境目のない一吹の風として僕の身体を攫ってくれていたはずだった。

僕は、芽衣の目を覗き込みながらもう一度鏡をこわそうとおもった。そしてもう一度頭の中のイメージだけで風景を捉えようと決めた。


「ぼくはどうして泣いてるんだろう?」


風景が母を殺してから2年が経って僕はもう外界に意味を探すことを完全に放棄した、鉛のように硬い秋であった。
部屋に籠って出生とエンドロールの約束された物語にしがみつきながら視線をテレビジョンの向こう側へ傾斜させ続けていた「アデル、ブルーは熱い色」という邦題。
中盤、アデルという女とエマという女のセックスシーンが流れる。
途切れなく10何分続く。
ぼくは泣く。
きれい、きれい、きれい、きれい、きれいだ、きれいだ、きれい、きれい、気が狂うくらいきれい、気が狂うくらい泣いて吐き気がしてそのまま嘔吐してしまった、便器にしがみつきながら、絡み合った2人の女の裸の映像が僕の頭の中で何度も回転し続けてる。
僕は泣き叫びながらオナニーする。頭の中に雪崩れ込んできた感覚が美しくて、相変わらず空っぽで、気持ちよく火照ってくる身体を透過する熱が、ゆれる乳房や女たちの喘ぎごえが、背骨の浮き出る肌理の影の柔らかさや切り抜いた原色の色彩をそのまま頬に委ねたような明るいアデルの表情が僕の眼球から溢れ跳ねてもうどうしたらいいかわかんないおれもうどうしたらいいかわかんない、パパの声が扉の向こうからする。僕が何度も自殺未遂してた時期だからまただと思ったらしいカナヅチでドアノブをぶっ壊そうと叩きながら僕に問いている。何でお前まで死のうとするんだよ、何でいつまでも泣き続けるんだよ


「わかりません。どうして泣いてるのか自分でもわからないんです」


春ごもり、そういう名前をつけて、永い過呼吸から地上に顔を出そうとしたのが23歳である。一年前の、3月の阿佐ヶ谷、パン屋ブリ、卒業式、マルニの革ジャン、花束と子供の皮膚の匂い。昼下がりは十何日目かの展示会中、僕は70歳になる美しい女性と出会った。僕はまた泣いていた。
隣には丹羽さんがいて、パンの焼く匂いがしていて、ぬるくなった珈琲があって、僕は僕の作った服に囲まれて、1人、木椅子に座って赤くただれた左腕をその女性に見せていた。
でも、4歳のあの時とは違う。

僕はかつて女優だったというその女性の目を見ながら、その萎んだガラスに自分を映すことをしないで、彼女の目だけをみつめることに成功したから。
許された気になったのではないし、開き直ってもないし、現象と、きもちと、動機のない行為がシンクロして、ただ、鏡の真ん中で出会ってしまっただけ。

「あたしね、昔、妹と姉がいたの。そのふたりがね、目がくりんくりんで、鼻がすっと高くて、あたしだけがね、醜かった。それがほんとうに嫌だったのよ
‥‥‥
あなた作るものはいいわよ、あたしが言うんだから間違いないわよ。ただ文章は、駄目。とことん駄目。こんなの誰が読みたいと思う?  あなた書くのやめて服だけ作りなさい、みんなを幸せにしなさい、自分の不幸とか痛みを外に見せて愛されようとしちゃ駄目、外に向かうのよ、わかる?   外に目をやりなさい。美しいものが、沢山、本当に沢山あるんだから
‥‥‥
一緒にいて、何を言ってくれなくても、あなたが心から安心して居られる人と一緒にいなさい
‥‥‥
何も望んではいけない
‥‥‥
もし本当に苦しくて死ぬしかないってなったらね、心の底の方で本当に耐えられなくなったらね、自然に向かいなさい。そうしたら、必ず、大丈夫だから
‥‥‥
何で泣くの。泣かないの。辛いんでしょう。わかるわよ。でも、泣かないの」


──何で泣いてるのかなんて、わからない


そして数日前の夜11時の西荻窪、僕はそんな台詞を吐いていつもみたいに取り乱すこともなかったし、訳のわからなさというおぞましさと争うのをさっぱりやめて、ただ黙って、意味を超えてしまった身体の衝撃と無意識の舞いを自ら感覚して、全身で泣いていた

横の席に、坂口恭平さんがいるのだ

そのあいだ、僕は、彼の声を取り込み続けていた

僕は創也の影に隠れて、彼の目を絶対に見ないと心に決めて、声に全身を委ねて、想像力と、実際に鼓膜を突き抜けてくる声を混ぜ合わせて、おれはひとつの風そのものだった
倫太郎や尾上くんやあずきが何かずっと質問していて、それに返答してくれる声だけ拾って、閉じ込める、僕は羽が生えた皮膚を、時間の存在する四方に投げて、僕は僕を忘れられ到達した鏡の向こう側でたしかに完全に彼に出会ったのだと思った
僕は彼の本を一冊も読んだことはないし、彼を取り巻く情報を、深く知らない
ただ、これまで延々と延々と延々と声だけを一方的に繰り返し聞き続けてきた
とっくに脳が火傷するくらいは、彼の声というのを頭蓋に記憶していたし、外部からのその声を自己同一化し過ぎて、内面化し過ぎて、外のリアルの世界で彼と接触するのは、だから、ものすごく危険なことで、それは意味性を超えた、不定期にいつも矢庭に僕の身体へ訪れてきたあの落涙の振動そのものであり、宗教であり、いやノリであり、ビートであり、最果てのコミュニケーションだったのだから、僕は、泣いたのだ
もう勝手に涙が出てきて、なんか勃起してて、笑えないくらい可笑しくて、すごい性欲の波に皮膚をくすぐられてて、心臓がひらひらして、血が痒くて、かれの声とフュージョンして、銀河まで飛躍しながら人間の無意識と同期する僕は歴史をひしめくイマジネーションを獲得して、彼を捉えたのだ

おれは鏡の向こう側まで自分の足で辿り着くことが出来たのだと、おもった

他人というのを初めて受け入れることが出来て、坂口恭平さんの声をリンボまで取り込みながら、そのとき僕は男でも女でもなかったし、しんだ母を目指しながら、心象と目の前のビールの冷たさの双を抱えて駆け抜け疾走する途中の、現実の龍だった


なんでないているの?


「やっと 出会えたから」

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