こもさんへ


あんなに長い原稿を読んでくれて、ありがとうございます。

僕は今、助けられたような気持ちでいっぱいです。

こもさんになら変なバイアスなしに理解してくれるかなと思って、正直になんの言い訳もなくいいますが、この小説を書く前、これを書いて自殺しようと決めていました。でも、無理でした。書き終わった時にすべてを書いてしまって空っぽになりました。僕はいまでも空っぽです。22歳までに自分が見てきた何もかも、そしてこれから僕が通過するであろう風景に、言葉を使って意味をつけてしまったからです。自分の中にある無意識の欲望みたいなものと対峙し続けて、外に出してしまったからです。こもさんも知ってる通り、僕は母にも愛されて育ったし暴力も知らないし、なぜこんな感受性になってしまったのか、説明できません。紬がるるを殺して自殺したとき、僕の中で何か区切りがつきました。新人賞がとれなかったのが、ただただ絶望でした。
そういう思いがありました。思いと完成度は全く関係ありませんがそう言う気持ちでした。

まず、この小説は2021年の春から2022年の2/14までに書かれたものですが、あの頃僕は21歳から22歳にかけての年で、ものすごい自意識が悪い意味で高かったんですね。それで、書きたくないこと(書けないこと)があまりにも多すぎました。
それは言語の世界での美的感覚と、自分語りというものへの不信感からきてます。
その結果以下のようになりました。
・地の文で「私」や「僕」といった主語を使わずに文法を組み立てる。
・できる限り物語的な語り方をしない
・できる限り主人公たちの過去の描写を省く
・伝わりにくくなろうがダサい言い回しは一切やらない
・太宰的な自己愛によるセンチメンタルを否定しつつ感情は否定しない

そういう若気の至りがそのまま文体になってます。その結果、プロットに綻びが生まれ、ものすごい読みづらい感じになりました。それでも最後までヒップホップ的な語感(韻を踏んだりしている)、アホリズム的な言葉の強さだけで押していきました。

いち人間の無意識を掘り続ければ世界につながると、それは一人称を超えた普遍性を持ちうると。そう言う考えから非常に個人的でエゴイスティックな物語を書いてました。

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この小説の下敷きとして、

中村文則「銃」
朝吹真理子「きことわ」
ソポクレス「オイディプス王」

この3つがあります。これらをすべて解釈し直してサンプリングして使い、細部や隙間などにふんだんに個性を練り込もうとしました。
この三つの小説をどうやって織り込んだのかは長くなりすぎるのでまた後日‥!

物語全体の流れとしては、それまで「いとわ」という人間の内部の中に閉じこもっていた主人公が「るる」という外部との出会いにより、共依存的な世界から無理くり外に押し出されていくという感じです。
「春」の中で冬眠していた動物が外の世界に出ていくまでの過程、といったイメージでしょうか。
春から春の先へ、大地から空へ、内側から外側へ、無意識から意識へ、というのを物質、空間、色、服、光と影、速度を使ってイメージを喚起させながら書いていきました。

一言で言うと、いとるるわは、母なるものから神なるものへ魂を移行するまでの意識の流れがそのまま物語になっています。だから恋愛を媒介として使っているだけで恋愛小説ではないです。そう言う意味では女性をモノとして扱っている、非常に古い価値観です、現代の盛んなフェミニズムに反逆している。うまく書けているかは別として、そういうタネがあります。
余談ですが、主人公にスカートを履かせたり一人称が”わたし”だったりするのは、そういう男権的な価値観にならないための中和の意味もありますが、僕のジェンダーの感覚は小説の上ではただのレトリックというか、ファッションをやっている単なる自分の個性かなと思ってます。ただ、男であることを否定して、主人公が女のように振る舞い、そこに敢えて筆を触れずに書き進んだのは、いとわとの共依存の反映が大きいかなと思います。幼い子が母の真似をするように。

言わずもがな、いとわは母のイメージ、るるは神のイメージです。
ラスト、主人公は「春」という母的な感覚から脱出できずに、神なるものと一緒に、母的なイメージの中に心中することを選び幕を閉じます(最悪ですね)。
すなわち、いとるるわ、とはいとわの中にるると行く、という言葉遊びの意味を持ちます。

縷々は、紬のオルターエゴです。
物語は、紬とるる/縷々といとわ と言うふうな関係性を持って展開していきます。
この関係性の対比がそのまま二元論です。
簡易的に言うならば、紬は闇に、縷々は光に向かいます。
紬とるるが邂逅した同時期に、縷々はいとわと出会ってます。紬が外部にるるをみつけたように、縷々にとってのいとわは、外部の象徴であり、美の権化であり、神です。
ラスト、いとわが縷々の子を妊娠しますが、あれは縷々が外部の中に自分の居場所を作り出すことに成功したということです。同時に紬は共依存から押し出され、内部に居場所が消滅したことを意味します。その結果「母」が消滅した=「春」が終わったことを真っ赤な夕暮れの中で悟った紬は外部であるるるの元へ疾走します。そして、縷々/いとわとは真反対の行為をします。二元論的なイデオロギーにおいて、物語的にはそうしなければいけなかった。だからラストシーンはあの選択以外あり得ません。
どちらかを救い、どちらかを殺さなければいけないと思いました。

フキには特に意味はありません。物語にうねりを生ませるための無意味に設定した人物ですが、案外いい味が出せたかなと思ってます。紬といとわの関係にも仄かな明るさと厚みが出ました。

でもはじめの宮沢賢治の引用があの小説の思想としての核を表しているかな、と思います。

とりあえず、こんな感じですが、書き終えて2年近く経つのにいまだに色褪せないのは不思議です。だいたい書いて数日経ってしまえば魅力を失って自己嫌悪になるのに、ずっと美しいと思ってしまってます。
だからあの小説をリアルまで押し上げたくて、今は被覆としての表現をやっています。まだ誰にも伝わってませんけど。途中だから。


嘉一

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