難しくなる歴史研究
(2005/07/30記)
七〇回、足かけ七年に及んだ立花隆さんの連載「私の東大論」が文藝春秋二〇〇五年八月号で最終回を迎えた。東大の先端研に客員教授として招かれた体験をもとに高等教育の問題点を指弾し、教養とは何かを説いた『東大生はバカになったか』(文春文庫)に端を発した連載で、立花作品としてはやや地味な部類に属するだろう。たしかに当初の教育論はどこを目指すのかわかりにくいところがあったのだが、東京帝大の歴史を掘り下げるようになってからは、じつは結構面白かった(第二工学部の話なんて知らなかった)。
文藝春秋の担当編集者、田中裕士さんから声がかかって、最終回の次の号で「東京大学の八月一五日」という番外編をやりたいので、データマンをやってくれと頼まれたのは六月終わりのことである。
召集猶予があった理工学系は大学に残っていた学生もいるのだが、文科の学生は学徒出陣、勤労奉仕などで大半が狩り出されていて、あの日を東京大学で迎えた人は非常に少ない。そこで、駒場でも本郷でもいいから八月一五日を「東大」で迎えた人を探し出して話を聞き、そのスケッチをデータ原稿にせよ、というのが田中さんのオーダーだった。
某日、朝イチから文春に転がり込んだ私は各科の古い同窓会名簿を頼りに北は札幌から南は佐賀まで片っ端から電話を掛けると事情を説明し、お話を伺えないか、とお願いしてまわった。ところがである。
遙かなるかな戦後六〇年。すでに多くの方が点鬼簿に名を連ねてしまっている。身内の方に「きっと喜んでお話ししたと思うんですが、残念ながら…」と言われてしまうと平謝りするほかない。「寝たきりです」とか「惚けていて昔の話なんか無理」とか「耳が遠いので電話に出られない」という方も少なからずいて、終戦前後の取材に時間の壁が迫っていることを痛感させられた。
もともと当時の東京帝大は今の東京大学ほど入学はラクでないし、各科の定員も多くないから、昭和二〇年八月一五日にキャンパスにいた可能性のある学年に限定すると、取材対象者はそれこそ指折り数えられてしまう。その多くが亡くなっているのだから、これから先、戦争関連のテーマについての当事者への直接取材はますます困難になっていくだろう。おそらく戦後六〇年は日本が実体験的に戦争を語り、強い関心を寄せる最後のタイミングとなるような気がする。戦中・終戦の体験者がほどなく絶滅してしまうことは目に見えている。
そんなことを考えていたとき、思い出したのが元中央公論編集長、粕谷一希さんと東京大学教授の御厨貴さんの会話である。それは粕谷さんの『反時代的思索者』(藤原書店)刊行記念として行われた、ジュンク堂書店池袋本店でのトークセッションにおける一幕だった。
本書は筑摩書房の設立にあたって臼井吉見と共に顧問を務め、その方向性に決定的な影響を与えた思想家・美学者、唐木順三の評伝で、私は出てすぐに購入していた。随所に筆者の優れた観察眼が感じられるばかりでなく、筑摩書房と京都学派の歴史的分析としても卓抜している。なにより粕谷一希という編集者の長い読書遍歴を感じさせるところがよい。
そんな本の内容について語っていた粕谷さんが、同時代性の問題に言及したときのことだった。オーラルヒストリーの提唱者であり、これまでも多くの政治家の聞き書きを残す活動を続けてきた御厨さんにむかって、粕谷さんはシミジミと「日本でも中曽根くらいまでは政治家が手紙を書いた。それが貴重な一次資料となってきた。しかし最近の政治家は手紙を書かないから、これからあなたのような歴史家は大変でしょう」と呟いたのである。
政治家の日記や書簡が貴重な資料であることは言を待たない。とりわけ政治家が回顧録をまとめる風習がない日本では、公開を前提としていなかった書簡や日記などが、ある程度の歳月と遺族の選別を受けた上で刊行され、それまでの政治研究を大きく進展させるということがままあった。
秘密を墓まで持っていくというのは日本的美風なのかも知れないが、歴史に学ぶという観点からはどうだろう。しかも、辛うじて記録として残ってきた日記と書簡さえ電話や電子メールに取って代わられ、失われていこうとしている。言うまでもないことだが、紙になったものでなければ改竄の余地が大きすぎて記録として定着したことにならない。
もちろん作為は入り込む。たとえば昭和初期の侍従次長、河合弥八の日記『昭和初期の天皇と宮中』(岩波書店)は第六巻、昭和七年分までしか刊行されていないが、じつはこの後も書き継がれており、そちらに随分興味深い内容が含まれていることは何人かの研究者によって指摘されているところだ。
また『高松宮日記』(中央公論新社)については、ある研究者から「監修者は宮家から(事前に内容が取捨選択されたコピーを渡されただけで)原本を見せられていないのではないか」という疑念を聞かされたこともある。
三島由紀夫からの私信を自身の思い出と共に綴った三谷信の『級友三島由紀夫』(笠間書院)が著作権継承者の忌諱に触れ絶版となったことなども記憶に新しい(後に改変されて中公文庫に入った)。
それ以外にも国立国会図書館の憲政資料室にしまい込まれたまま埋もれている重要人物の日記や書簡は数多い。
しかし、そもそも記録として残るのと残らないのでは雲泥の差がある。日記がブログに替わり、手紙が電子メールに変わった。このことが風化させ、改竄させていく記憶や歴史が、ただでさえ歴史に学ぶことの下手な日本人に、一〇〇年、二〇〇年のスパンでどのような影響を与えていくのか不安を覚えずにいられない(それを補完するのが映像や音声情報だとは思いにくい)。
余談だが、最近は政治家が筆を執らないと聞いた。そもそも揮毫を求める有権者がいないからだそうだ。大体これを読んでも「揮毫」が何か分からない人もいるのではないか。「政治家のレベルが有権者のレベルを超えることはない」という後藤田正晴さんの言葉が思い出される。
電子メールの便利さを否定する気持ちはないが、手紙を書く風習そのものが日本人から失われていくのは様々な観点から惜しまれる。先だって池田弥三郎さんの『手紙のたのしみ』(文春文庫よ、再版してくれ)を読んでいると以下の一文があってなるほどと膝を打った。
「わたし達の与えられた古い教養は、書簡文と言えば、まずきまった型を教えられた。拝啓と書き出し敬具と結ぶ。春暖の候、貴下益々御盛栄と書き出す。そしてある時期、文章改革の上で定型破壊ということが始まった。感情の伴わないきまり文句はやめるべきだ、紋切り型は排斥せよ、というわけだ。そして、真情のこもった、思ったまま、感じた通りを書け、ということだった。そして在来の拝啓敬具などの文範そのままの手紙を、人は書かなくなってしまった。
しかしこの指導はあやまっていた。思ったままに書く、感じた通りに書くということが出来れば、それは作家である。くろうとなのである。しろうとにはそれが出来ないから、昔の知恵者が、型を作ってくれたのだ。型に沿っていけば、しろうとにも手紙は書けた。しかしその型を失ってしまったしろうとは、今、手紙も書けなくなってしまった」
これは市井における日常ごととしての手紙について書かれた文章である。故に先ほどまで私が述べていた政治家などの記録としての手紙が失われることとはやや意味合いが異なって見えるかも知れない。ただ人にとって「モノを書く」という行為は、じつはかなりの部分、手紙や日記を書くことによって占められていたと考えられるので挙げた(この場合の「モノを書く」とは、筆記具で紙に文字を書きつけることを意味し、ワープロを叩く、エディターで作文する、こととは違うので注意されたい)。書くことは自分の考えをまとめ、定着させることであり、それを表明するための準備である。
もっとも政治家や皇族の日記を読んだり、田辺元や唐木順三の書簡集を読んでおもしろがっている私だって、自分で手紙を書くときは電子辞書が手放せないし、筆を執るときは傍らにお手本がある。先人たちに比べれば冗談のような「書く力」しかないはずだ。出来ることと言えば、論文の抜き刷りを送ってくれたり、新著を恵投してくれる旧友、知人に礼状を書き、思いつきや身のまわりのよしなしごとをノートすることぐらいか。
ときならぬ教養ブームの昨今、ずいぶん低いスタート地点からしか出発できない自分を嘆く。
<参考文献>
『評伝河合栄治郎』松井慎一郎(玉川大学出版部)
『オーラルヒストリー 現代史のための口述記録』御厨貴(中央公論)
『宮沢喜一回顧録』宮沢喜一・御厨貴(岩波書店)
『首相官邸の決断 内閣官房副長官石原信雄の2600日』石原信雄・御厨貴(中公文庫)
『情と理 後藤田正晴回顧録』後藤田正晴(講談社)
『原敬日記』(福村出版)
『佐藤栄作日記』(朝日新聞社)
『田辺元・野上弥生子往復書簡』(岩波書店)
『田辺元・唐木順三往復書簡』(筑摩書房)
『ウェブログの心理学』山下清美・川浦康至・川上善郎・三浦麻子(NTT出版)