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大山の麓にて

(2012/08/19記)

 初めてお誘いいただいてからほぼ十年。ようやく鳥取県伯耆町を訪れた。目的地は植田正治写真美術館である。当時、熱心に誘いの声をかけてくださったのは仲田薫子さん。植田さんのお孫さんに当たる。

 そのころ私は、東京外語大の教授だった荒このみさんが編者となり、河島英昭さん、小池滋さん、増田義郎さん、松山巌さんら錚々たる筆者が原稿を寄せてくださった『7つの都市の物語』(NTT出版)という本を担当していた。

 そして、この本のカバーには植田さんの写真以外に考えられない、と渋谷にあった仲田さんの事務所に何度か足を運んでいた。

 私が初めて事務所を訪れるわずか一月ほど前、仲田さんは植田正治さんのご長男にあたるお父様を亡くされ、版権管理などの業務を引き継いだばかりだった(それまでもお手伝いはされていたようだったが)。

 元々植田さんの写真が好きだった私が、なぜこの本にこの写真を使いたいのか、くどくどと述べ立てるのを聴きながら、仲田さんは「父が生きていたら、さぞ話が合ったと思いますよ。会っていただきたかったな」と涙ぐみながら笑った。

 しかし植田さんの写真の使用料はとても高価で、こちらに提示できる金額ではとうてい折り合うことができない。内留金、外流金、あちこち削っても、費用は捻出できそうになかった。

 ついに万策尽き、涙を呑んで断念します、とお話しに行ったところ、仲田さんは「そこまで言ってくださるなら祖父も父も本望でしょう」と、破格の値段で写真を貸してくださったのである。

 幸い、本の仕上がりは執筆陣にも、そして仲田さんにも好評で、それから「ぜひ美術館にもお越しください」というお誘いが始まった。

 ところが大山の麓にあるこの写真美術館への道のりは遠かった。そのためだけに旅するにはいささか不便な場所なのである。

 時候の挨拶のたびに、今年こそはお邪魔しようと思いつつ…、などと書きながら、仲田さんの事務所が世田谷に移って足を運びにくくなると、そのうち音信も途絶えがちになって数年が打ち過ぎた。

 恒例となっている夏の家族旅行(要するに息子との二人旅なのだが…)で、今年、松江、出雲へ行くことにしたのは全く偶然からで、しかも米子空港から植田さんの美術館まで足を伸ばせる距離であることに気づいたのは、松江のコンビニで買った「るるぶマップ」の表2対向ページにたまたま美術館の広告が載っていたおかげだった。

 そして今日、八月一九日、旅程の最終日のイベントとして私は満を持して美術館を目指した。米子からレンタカーで四十五分。ロケーション、建物、レイアウト、展示、仕掛け、作品、いずれもすばらしいもので、ショップでは買いそびれていた『小さな伝記』(阪急コミュニケーションズ)も手に入れた。

 大いに満足した私は勢いを駆って事務所をお訪ねした。仲田さんへの伝言をお願いするためだ。

 数ヶ月に一度、とは言わないまでも展示の入れ替えがある折々、仲田さんはここを訪れているだろう。突然、「ついに来ましたよ」とメモを残しておいたら、きっと驚き、約束を果たすのに十年かかったことに呆れつつも笑ってくれるだろう、そう思ったのだ。

 ところが返ってきたスタッフの言葉は私を凍りつかせた。

「仲田は三年前に四十四歳で亡くなりました」

 突如、視界に広がる風景の意味が分解し、立ちくらみかと思うほど体が揺れた。何と言うことだ。私は十年越しの約束を果たしに来たのに、かの人はもうこの世のものではないというのか。痛恨だった。何と間抜けな話だ。

 先ほどまでの威勢はどこへやら、私はしどろもどろになり這々の体で事務所から逃げ出した。恥ずかしいやら情けないやら、名状しがたい気持ちに襲われていたたまれなくなったのだ。

 急にいろいろなことが思い出されて止まらなくなった。その中には、まだ果たしていない彼女との約束もあった。

「また祖父の写真を使うような本を作ってくださいね」

 仲田さん、あなたに美術館訪問のご報告を出来ないのが本当に残念です。

 何年かかるかわかりませんが、必ず約束は守ります。まったく遅ればせですみません。心からお悔やみ申し上げます。

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