「生死の去来するは棚頭の傀儡たり。一線断る時、落落磊磊。」 安倍首相辞任に寄せて

世阿弥「花鏡」の有名な一節です。
イノセンス」で何度もキーワードとして繰り返し出ていたので、押井守監督ファンの方ならご存知でしょう。

イノセンスのテーマは、その前作にあたる「攻殻機動隊」と同じだと私は思います。それもさらにピュアな形で表現したのが、「イノセンス」だと思うのです。

「自分のゴースト(魂)といかに向き合うのか。」

自分のゴースト(魂)と向き合わないでいると、誰かに操られる人形になる。自分のゴースト(魂)と向き合うとは、自分が何者でないかを知ること。
自分でないものを剥ぎ取る。
玉ねぎを剥き終わった芯に何が残っているのか。
それが問題なのです。

「棚頭の傀儡」とは、親や世間体、見栄など、私でない押し付けられた価値観に踊らされている状態を言うと思います。自分では無いものを被せられてしまっている状態。それが親からの押し付けや、所属集団の文化的押し付けである場合もあります。いわゆる「環境」という構造による押し付けです。

自分の魂と向き合うとは、「自分が何者ではないかを決める事」です。
人は「自分が何者か」を必死に追い求めて、青木ヶ原樹海に迷い込みます。
それは親や所属社会から押し付けられた、社会規範であったり、思い込みであることが殆どでしょう。
「自分が何者では無いか」を観て、その自分では無いものの排除をやると、玉葱の皮を剥いていく様に、どんどん無くなります。そして、最後に玉ねぎの芯に辿り着く。

それが自分の「心(しん)= Ghost」なのです。

「心無罣礙無罣礙故、無有恐怖、遠離一切転倒夢想」

心には汚れが無い汚れが無い故に、恐怖がない、全てが遠く離れた倒錯した夢でしかない

その自分の「心」は、汚れが一切ない、現実と思っていることは全て錯誤した夢であると、般若心経は教えるのです。

人は関連性の中でのみ「生きていること」を実感します。
無視されるのが一番辛いのはそのためです。
関連性の中でしか、「自分の実体感」を確認できないのです。
関連性そのものが「縁」であり、生きると言うことは「縁」の中に生じた時間の結節点のようなものです。そしてその実体は、「業」そのものです。
生きていくためには他の生き物から「生」を奪い取ることでしか生きられない。この「生」≒「業」であることを断ち切るには、正しく悟る必要があると言います。「即往南方無垢世界坐寶蓮華成等正學」正しい場所に行き学ぶ事で、正しく悟る事ができる。
室町時代の臨済宗大應派の僧である月庵宗光は、”「即心是仏」で「後世ノ成仏ヲ希望」したり「有相ノ仏」を求めることを戒しめ、「我心スナハチ仏ナリト信スル」ことにより、この身ながら仏になる(仏である)”と教えた人とされます。(Wikipediaより)
世阿弥はこの月庵宗光に触発され、冒頭の言葉を花鏡に記したと言われます。

諸行の実態は「無常」であるとは、常に変転するところにでは無く、自分の実態を自分ではないものを排除して行くところに心の平安があるのかもしれません。

安倍首相も、首相という自分では無いものをようやく脱ぎ捨てられるようになったのでしょうか。それには彼の身体は耐えきれなかったにも関わらず、ここまできてしまったのでしょう。
お疲れ様でした。

サポートいただき感謝します。いろいろ困難な時ですが、人様のお役に立てる事を考え、行動していく所存です。宜しくお願いいたします。