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なぜ、ヤマケンはいつも愉しそうに走っているのか?

トレイル・ランナーの山本健一さん(ヤマケン)が、地元の甲斐国一周トレイルPASaPASA(350km)という、また一つクリエイティブでチャレンジングな記録を打ち立てました。

今日はヤマケンは何故いつも人が思いつかないような面白い活動をしているのか?という話から、アウトドア・スポーツにおいて、問い(課題)を見つけることの大切さ、という話をしたいと思います。

いきなりですが、ヤマケンこと山本健一氏のことを知らないかたは、まずはググるなりなんなりしてみてください。同姓同名の山○組系の組長が出てきますが、もちろん別人です。

ヤマケンは以前、高校教師として地元の県立高校に勤めながら、年に一度の長期休暇を使って、海外の大会遠征を行い、数々の記録を打ち立ててきました。

私もその中の一つ、レ・シャップ・ベルという大会の同行取材をさせていただいた事があるのですが、その時以来、つくづく不眠不休で写真を撮り続けるトレイル・ランの仕事がイヤになり、それ以来全くその仕事の依頼がこなくなるという循環が起こりました。これは余談です。

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このレ・シャップ・ベルという大会は、同じくモンブラン一周のUTMBと同じ日程に当ててくる強気の大会なのですが、大会のキャッチ・コピーがふるってます。「よりハードで、よりビューティフル」つまり、UTMBよりも知られてないけどイケてるよ、ということです。

このレ・シャップ・ベルでヤマケンは初出場で2位という成績を収めますが、ボロボロになり、苦しみながらも、笑顔を絶やさず走っているヤマケンの姿を撮り続けて、わかったことが一つあります。

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それは、ヤマケンは答え(記録)を求めてはいない。

ということでした。

当たり前ですが、走ることは、歩くこととは異なります。

走ることは、歩くことより

①早く目的地にたどりつく事が出来る

②同じ時間で遠くにいける

③同じ時間で多くの景色を見られる

というメリットがあります。

多くの人が感じる走ることの利点は①ですが、ヤマケンが求めるもの、それは断然に②と③ではないか、と思うに至りました。つまり、なるべく遠くに行って、まだ見たことのない景色や人に出会いたい、ということです。

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これは、大会という問い(課題)に対し、答え(記録)を求めていない、ということだとも言えます。

だから、ヤマケンは一つの大会で記録を求めるのではなく、世界中で行われている大会の中から「そんな大会あるんだ?」「何その大会?面白そう!」という不思議な魅力をもった大会を探しだし、日本人として真っ先に挑戦し、その後、日本のトレイルラン・コミュニティにその大会の名が知れ渡り、ジョジョに挑戦者が増えていく、という流れを作っていったのかもしれません。

その後、ヤマケンは高校教師の職を辞し、プロのアスリートとしての活動を始めます。しかし、今回のPASaPASAという独創的な取り組みを始めたことは、いかに不思議な魅力をもった大会といえども、所詮は誰かが作ったものであり、他人の作った問いに対し、正解を必死に考えること、から脱却しようという思いがあるのかもしれません(ないのかもしれません)

いや、おそらく、ヤマケンは高校教師としてテスト(問い)を作ることに、時に苦しみ、答えより問いをもつことに、本来の魅力や難しさもあると気づいたのかもしれません(そうでないかもしれません)

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「良質の問い」という点では、同じくトレイル・ランナーの望月将悟さんの行ったトランス・ジャパン・アルプスの無補給走破という取り組みも、忘れられない問いです。この問い(課題)が生まれた経緯というのは、望月さんと登山家/クライマーの花谷泰広さんが交わした会話だったといことからも、問いそのものの大切さが、見てとれます。

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なぜなら、クライミングや登山ほど課題(問い)の質と内容を大切にするアウトドア・スポーツはないからです。登山家である花谷さんの中にある、山とどう向き合うか?という「問い」が、トレイル・ランナーである前に、一人の山男である望月さんのソウルに火をつけた、ということで、このチャレンジが行われたのだと、推察しています。

日本人、特に若い世代は、長年の学校教育の成果から「正解」を求めることには長けていますが、疑問そのものを持つことは苦手だと言われています。

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以前、偏差値の高い大学を出た芸能人が集まる何かのバラエティ番組で、入試でどんな問題出たか?という質問がありました。その中で、八田亜矢子だったかが、

「東大ではアヘン戦争の日本への影響について述べよ」という問題があった、という話(記憶でしかないので、例え話くらいに聞いてください)をしていました。

それに対し、パックンマックンのパックン(ハーバード大学卒)は、ハーバードでは正解のある問題は出ず、出るとすれば「アヘン戦争を避けるためにはどのような解決策があったか述べよ」という正解のない問題がでるだろう、という話をしていました。

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これを聞いて大学中退者の私は、ただ漠然と「ハーバードってすげえなあ」と思ったので、このやりとりを未だに記憶しています。現在はどうか知りませんが、日本では東大といえども、正解を求める式の問題しか出ないのだなあ、これじゃあ、アメリカに勝てない訳だよなあ。と、自分は偏差値が東大合格に遠く及ばないことを棚にあげ、思ったことを覚えています。

しかし、この問題はどうやら第二次大戦後の日本の教育改革に問題があったそうで、日本も戦前まではハーバード式(そんなのあるのか?)の「問い」を持つ人間を育てる教育が行われていたそうで、明治維新後の飛躍的な近代化に恐れをなした欧米が、日本の教育の優れた点を取り入れ、逆に、不合理な点だけを戦後残したという「戦後日本の失敗は全部GHQのせい説」だそうです。詳しく知りたい方は、こちらの動画を見てみてください。(確かこの動画だったかと思うのですが、違ったら、このネズさんの動画全部見てください笑)

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戦前の日本は、ちょんまげ結って、刀差してた人々の時代から僅か70年程度で空母を建造し運用できる国家になってましたからね。逆に、戦後の日本人は、戦前の日本人のことを、非科学的で狂信的な人々だったと刷り込まれていますが、戦前の日本の科学性を考える上で、重要なのは、当時空母を国内で建造できて、ちゃんと運用できた国家はアメリカと日本だけだったということです。(ちなみに中国が運用を始めたのはつい最近のことです)もちろん、空母を建造出来ることが良いか悪いかは別の話ですが、一面ではすごく科学的で合理的な考えがあり、戦争の善悪を問わなければ、より強い力に負けただけという話ともいえます。

話がだいぶ逸れました。

私が言いたいのは、せっかくアウトドア・スポーツを楽しんでいるのなら、もう、正解だけを求めるのを辞めにしませんか、ということです。

もちろん、大会に出ること、すべてダメだといっているのではありません。

たまには大会も良いですよ、みんなとワイワイやれたり、あるいは逆にストイックに孤独に記録を目指すことも。それに身体的な技術の洗練や向上は大会があるおかげで飛躍的に向上するのも事実です。

しかし、それはアウトドア・スポーツの本質ではない、という話です。

ボルダリングにせよ、トレランにせよ、記録を求めすぎると、中国雑技団的な世界になるんですよ。つまり、誰かにやらされている感の強い極度に洗練された演技。

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そこからは「自由とは何か?」「人間は自然とどう関わって生きていくべきか?」というような本質的な「問い」が生まれることは決してないでしょう。

人間から「問い」がなくなれば、やがてそれはAiに代替されてしまう「生息」するだけの存在に成り下がってしまうのかもしれません。人間は身体能力では動物に劣り、計算能力や合理性ではすでにAiにも劣る生き物なのです。

ここまで来て、人間にしか出来ないことは何か?という「問い」にぶち当たるのです。

どうすれば「問い」が生まれるのか?

誰もが日本最高のクライマーだと認める山野井泰史さんの言葉として

「俺は池田常道さん(岩と雪編集長)の次に山の本を読んでいる」

という発言があります(人からのまた聞き)

池田常道さんという方は、海外の登山界にも知られる世界の登山史の生き字引のような博学の方で、世界中のあらゆる登攀記録に精通しておられる登山界における「知の巨人」です。その方の次に、山野井さんは山の本(記録)を読んできた、というのです。

山野井さんの数々の世界的な記録は、常人の遠く及ばない身体的、精神的な努力がもたらしたものに違いありませんが、問い(課題)を見つける発送源には、膨大な量の読書があったことを、私たちは忘れてはいけないでしょう。ここにヒントがあります。

つまり、読書があるところに「問い」が生まれる。

これはアウトドア・スポーツに限ったことではないでしょう。あらゆる世界でクリエイティブな活動をしたいと思うなら、読書は必須かもしれません。


まとめ

以前、山岳ガイドの仲間と、「プロとは何か?」という話をしたことがあります。

山岳ガイドにとってプロの山岳ガイドとは、どういう人のことをいうのか?

どういう人がプロの山岳ガイドといえるのか?

その時の答えは、現役のクライマーであること、とか、仕事だけではなく、自分の山行を行っていること、とか、常に最新のスキルを学び続けること、というような答えが出ていました。どれもこれも正しい答えのように思えたのですが、どれも一面しか物語っていないような気もしたのも事実です。

今、あの時の自分に教えてあげたい。

それは、プロとは「プロとは何か?」という問いを生涯持ち続けている人のことだと。

「今、私はプロと呼べる努力をしているだろうか?」

「プロと名乗るに相応しい生き方をしているだろうか?」

という問いを自律的に持てる人がそれに相応しい人かもしれません。


ヤマケンはいつもその「問い」を持ち続けているので、

人生に飽きることなく、いつも愉しそうに走っているのかもしれませんね。

YH

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時間とお金、どちらも有限な存在。ゆきずりの文章に対し、袖触れ合うも何とやらを感じてくださり、限りある存在を費やして頂けること、とても有り難く思います。