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「食べログ」「クックパッド」を育てた男くふうカンパニー 穐田誉輝さんの「働き方」を学ぶ

1はじめに・・・「温故知新」

(1)「温故知新」の視点から探す「自分らしい仕事・働き方」
この原稿は、「食べログ」「クックパッド」を育てた「くふうカンパニー創業者・穐田誉輝さん」の人生を年齢順に解説しています。その目的は、投資家・経営者として多くの実績を残した穐田さんの生き方を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を見つけるためです。世の中、自分の将来をイメージできてない人が多くいます。生涯設計が曖昧だと、中途半端な人生に終わったりします。そんな不安を感じている人に役立つ格言が、「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」です。 
「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を明らかにしていく有効な思考法です。ビジネスで活躍した人達の情報を収集・分析していくと、必ず自分の明日につながるヒントが浮かんできます。自分の未来がみえない人は、「温故知新」の視点から「自分らしい仕事・働き方」を探してください。

(2) 穐田誉輝さんから学ぶ「自分らしい仕事・働き方」

穐田さんのビジネスパーソン人生は
①  投資会社「日本合同ファイナンス」の時代
「日本合同ファインナンス」に入社、厳しい営業活動を体験
②  中古車買い取り業「ジャック」の時代
上場前の「ジャック」に転職、上場による株式益の入手を計画
③  ベンチャーキャピタル「アイシーピー」の時代
30歳にして会社を設立、インターネット企業への投資を開始
④  ネット比較サイト「カカクコム」の時代
「カカクコム」に投資、社長に就任して「食べログ」サイトを事業化
⑤  調理のレシピサイト「クックパッド」の時代
レシピサイトの実績を高めながら事業領域を「生活サービス」に拡大
⑥  生活サービス事業「新・くふうカンパニー」の時代
「クックパッド」を退社、「新・くふうカンパニー」で新たな事業展開
・・・・となります。
 
穐田さんは、「新・くふうカンパニー」を設立、「クックパッド」時代の仲間とユーザーの困りごとを解決する生活サービス事業を展開しています。

注)穐田誉輝さんの「仕事・働き方」は『ユーザーファースト 穐田誉輝とくふうカンパニー』(著者:野地秩嘉 発行所:プレジデント社)を参考文献にしています。


2 穐田さんの「仕事・働き方」のステップ

穐田さんが、「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」を解説しています。個々の事例を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を考えてください。

《誕生・・・・大学生》
 青山学院大学に入学、起業家を目指して就活

(1) 1969年 千葉県匝瑳市に誕生
父親がサラリーマン、母親が生保レディの家庭に生まれる。
 妹に障害があった。親はいずれ死ぬし、サラリーマンの稼ぎじゃしれているので、妹の面倒を見るためお金が手に入る起業家になる決意をする。

(3) 高校受験の合格祝いはステレオ
父親と、高校に合格すればステレオを買ってもらう約束をする。欲しかったのはコンポーネントのステレオだった。
 
(4) 高校に合格、ステレオ代は30万円
春休み毎日のように秋葉原にでかけ、アンプ、プレーヤー、スピーカーなどブランド別に安い商品を買っていく。商品ごとに、価格と並行して音質や性能、外見をチェックする。秋葉原でのこのステレオ購入体験は、「カカクコム」での値段、スペック、サイズなどの表示に役立ってくる。
 
(5) 1989年 青山学院大学に進学
入学すると全く勉強せず、成績は下がる。日本の大学生の9割以上は1年生の時に勉強しないのが普通みたいである。2年生ぐらいなると、留年を恐れ少しは勉強する。
 
(6) 起業家になるための就活
就活では、「起業家になるためのキヤリアを積む」ことに適した会社を探し会社訪問する。100社訪問してわかったことは、大半の会社は「起業」の目的に合わないことだった。日本企業が欲しがり、採用する学生は、何があっても中途退社しない人間、転職せず終身雇用を望む人間であった。

(7) 起業家向きの会社に内定
野村証券系の「日本合同ファイナンス(現ジャフコグループ)」と大和証券系の「大和企業投資」の内内定を得る。2社の業務内容は、上場を目指すベンチャー企業へ出資する投資会社だった。
 
(8)「日本合同ファイナンス」の採用決定
「大和企業投資」から「来年の新卒採用はないかもしれない。日本合同ファインナンスにいってみたら・・・?」といわれる。言葉通り、「日本合同ファインナンス」にいくと、あっさり採用になる。

《24歳・・・・27歳頃》
 「日本合同ファイナンス」時代・・・厳しい営業活動を体験

(9) 1993年「日本合同ファインナン」入社、飛び込み営業
新入社員の仕事は、成長企業の社長に合うための「電話アポイントと飛び込み営業」だった。100回電話をかけて会えるのは1人か2人なので、アポイントを取らず飛び込み営業して名刺をもらい、上司へ報告する。何度も何度も断られているうちに、次第に耐性がついてくる。アポイントとりと飛び込み営業が労働時間の大半をしめる。情熱は「経営者に会ってもらったときに使う」と割り切って日々の営業活動を続ける。
 
(10) 投資先が見つかったら「開発会議」
営業活動で投資先が見つかったら社内の開発会議にかけられる。開発会
議では担当者がプレゼンを行い、審査会議や役員会の議論を経て投資の
是非と投資金額が決まる。
 
(11)「不動産情報会社」への投資が決定
穐田さんが初めて見つけた投資先「不動産情報会社」へ1億8000万円の投資が決まる。何度も投資先の会長、社長と面談し、成長する企業だという確信をもつ。創業会長は技術屋で業界を変えようという熱意が強く、社長は有名企業の海外法人の社長経験者だった。面談に同行した上司も、「この会社のいいところは二人の経営者だ」と評価する。
 
(12) 投資先の会長に逃げられ失敗
投資先に契約したお金を振り込むと、事前に使ってはいけないと決めていた資金が口座から降ろされる。会長が逃げ、会社は倒産する。会長は偽名だった。投資会社については、社長のことは信用機関で調べたが、会長は調べていなかった。投資してから倒産までの時間は最短記録になる。穐田さんは24歳、投資失敗の最年少記録を作る。

(13) 企業研究で「ドン・キホーテ」「ユニクロ」に注目
企業研究が好きで、成長しそうな小売業のベンチャー企業を探すのが得意になる。個人的に、絶対に伸びると思ったのが「ドン・キホーテ」と「ユニクロ」だった。「ドン・キホーテ」の1号店にでかけ圧縮陳列を見る。圧縮陳列は商品を隙間なく大量に積上げ並べる販売手法で、ジャングルのようにしてお客さまをひきつける売り場を作り出す。「ユニクロ」は問屋から仕入れてきた商品を売る洋品店から自社製造の製品を売るSPAに転換中だった。成長企業とめぼしをつけたが、「ドン・キホーテ」には出資を断られ、「ユニクロ」は担当地域外になる。
 
(14) インターネットによる情報社会に関心
1995年の夏、野村総研が発表したアメリカの近未来を予測したレポート
を読む。「アメリカは情報社会になる。インターネットで未来社会は劇的
に変わる」と、新しい社会の誕生を訴える内容だった。インターネットに
よる情報化社会で成長が期待できる業種は3つあり、そのうち最も伸び
るのは「情報仲介業」とされていた。例にあがっていたのはアメリカの情
報仲介業の一つ、会員向け電話サービスだった。「この商品を最も安く売
っているのはこの店です」という情報が提供され、「電話でなくインター
ネットにすれば、社会と人間の行動が大きく変わる」と実感する。

《27歳・・・・30歳頃》
 中古車買い取り業「ジャック」の時代・・・ネットで価格査定

(15)1996年 中古車買い取り業「ジャック」に転職
「日本合同ファイナンス」を退職する際、転職先の候補は「衛星放送の会社と中古車買い取り業の会社」の2社だった。衛星放送会社のほうが社会的に注目されていたが、「中古車買い取り業・ジャック」を選ぶ。中古車市場は拡大しており、上場による株式益を期待する。

(16) 買い取り情報のインターネット化
「ジャック」は、お店に中古車をもってきてくれるお客さまを待つだけでなく、車を手放したいユーザーを探して、社員が買い取りに行く「訪問型の買取り」で快進撃をしていた。訪問買い取りでは、「車を売りたい客」を集めなければならない。そこで、インターネットによる「中古車買い取りサイト=ジャックネット」を導入する。車種、年式、値段といった買取り情報事例を掲載しておき、客は24時間いつでもサイトを見ることができる。夜中でも休日でも大体の値段をしることができ、店舗に行きたい客はサイト上で予約、自宅に来てほしい客は自宅住所をジャックネットで「ジャック」に知らせる。
 
(17) インターネット企業の調査
「ジャック」時代の後半、仕事の一環として、インターネット関連ベンチ
ャ―企業の発見に取り組む。「ジャック」と取引していた携帯電話の販売
会社「光通信」の村上輝夫さん(当時、「光通信」のベンチャーキャピタ
ル部門のトップ)から、投資先となるインターネット関連ベンチャー企業
探しに協力して欲しいと要請される。数多くの会社を訪ねる中で、「こ
こはいい」と思ったのが「オン・ザ・エッジとその創業者・堀江貴文」さ
んになる。堀江さんは、「自分がしている仕事は幸福の追求だ。世の中の
ためになることが幸福だ」と語っていた。
 
(18)「ジャック」株の店頭公開、退社
1999年、「ジャック」株の店頭公開により、穐田さんは約8億円の資産を手に入れる。しかし、会社が株券を渡してくれず貧乏生活が続く。「ジャック」の給料は安かったので、自社株を買うため年利16%という高利の金を借りており、給料のほとんどは利息払いに消えていた。

《30歳頃・・・・31歳頃》
投資会社「アイシーピー」の時代・・・ネットバブル崩壊

(19) 1999年 投資会社「アイシーピー」の設立
インターネット企業への投資で資金を運用して欲しいという人が30億円を出資し、「日本合同ファインナンス」時代の仲間5人が各1億円ずつだして投資会社「アイシーピー」を設立する。30億円出資者の要望に応え、未上場のインターネット企業への投資を始める。

(20) 2000年後半、ネットバブルが崩壊
日本のネットバブルが始まったのが1990年代の後半、ピークは2000年1月頃で「ヤフー1株1億円」を記録する。しかし、3月になると文芸春秋が「光通信」の携帯電話売買をめぐる不正(「寝かせ」)を報道する。「光通信」は他人の名義を借りて架空の携帯電話契約を結び、そのまま携帯電話を倉庫で寝かせたあと契約を解除する。それでも携帯電話価格の2倍程度の販売報奨金は支払われていたので利益がでる。この不正問題が引き金となってネットバブルが崩壊、ネット関連株が大きく値を下げる。
 
(21) バブル崩壊で株価の大幅な低下
「光通信」の株価が20日間ストップ安で最高価格の100分の1まで下落する。ジャックネットを運営していた「ジャック」は、中古車買い取り業でありながらネット銘柄に分類され株価を下げる。「ジャック」の株価8億円(1999年店頭公開時の株価)が2000万円まで激減する。「アイシーピー」の投資先もネット企業だったので株価下落の影響を大きく受ける。会社は大ピンチだったが、成長が見込まれた企業へ投資を行う。
 
(22)価格比較サイト「カカクコム」の誕生
1997年、パソコン周辺機器メーカーの社員だった植野光明さんは、秋葉原の電気店を回って製品の店頭価格を調べる業務を担当していた。その仕事を通じ、「消費者は一番安い商品を探し、お店はライバル店の価格を知りたがる。誰もが価格情報を求めている。」と感じ、インターネットを通じ価格情報を提供するパソコンの「価格比較サイト」をひらめく。会社を退社、試行錯誤した結果「価格.COM」を開設、パソコンの価格情報を手作業で入力して提供する。1998年、お店が価格をリアルタイムで登録できる「Windouws98特設掲示板」を設置、2000年社名を「カカクコム」に変更する。
 
(23)アメリカの「価格サイト」が日本進出
2000年、アメリカの価格比較サイト有力企業「ディールタイム」が日本に上陸する。ジャフコ、三井物産などから40億円の出資を受け、豊富な資金に加え優秀な人材を社長に起用、「カカクコム」を圧倒する事業展開をする。

《31歳頃・・・・37歳頃》
「カカクコム」「食べログ」の時代・・・「食べログ」は大人気

(24)「アイシーピー」が「カカクコム」に出資
「アイシーピー」は、2000年5月、「カカクコム(当時の会社名:コアプライス)」に1億円の出資をして20%の株式を取得する。「カカクコム」は、「アイシーピー」より先に別のベンチャーキャピタルとの出資話が進んでいて、ビジネスプランの提出を求められていた。しかし、植野さんは忙しいうえにビジネスプラン作成の経験もなく、5名いた社員にも書ける人はいなかった。穐田さんは「ビジネスプランは不要です。私が作ります。」といって出資を成立させる。
 
(25)「ディールタイム」サービスを中止
2001年 アメリカの価格比較サイト「ディールタイム」は業務を停止する。「ディールタイム」に勝った原因は、植野さんの執念とチーム力だった。ビオジネス経験のないゲーム好きなアキバオタクはパソコンに愛情を持っていた。手入力による徹夜作業で、購入者が求める細かいところまでのディテール情報を提供していく。この戦いから、穐田さんはベンチャー企業の力とは、「頭の良さではなく気合い」だと思う。
 
(26)「カカクコム」社長に穐田さんが就任
「カカクコム」植野社長が、「早く仕事を辞め無職になりたい」と言い出し、2001年社長を引き受ける。社員全員と面接をして、モチベーションアップに取り組む。人が頑張るのはお金だけではない。一緒に働く人間がきちんと評価すれば人は頑張るとして、社員が一致団結するチームにしていく。サイトの成長にともない、社長を始め会社のソファで寝る社員が多くなる。
 
(27)「価格比較サイト」の事業拡大
「カカクコム」は大勢の人がサイト訪問するようになり、広告収入が増える。「カカクコム」に掲載されたパソコンが売れると、販売店から価格の何%かの報酬が会社に入ってくるアフィリエイトも好調だった。この人気から、パソコンに続き家電製品、中古車、など価格比較サイトの商品アイテムを拡大する。もっと反響の大きかった価格サイトは、ブローバンド回線の料金比較だった。インターネットの進展とともに、会社も成長していく。
 
(28) 2003年「カカクコム」マザーズ上場
穐田社長は、「カカクコムの株式上場益」で借金生活に分かれを告げる。1996年から2003年まで続いた貧乏生活に別れを告げ、やっとお金のことを心配せず生活できるようになる。「カカクコム」の上場は、楽天(2000年4月ジャスダック)サイバーエージェント(2000年3月東証マザーズ)、ライブドア(2000年4月東証マザーズ)に遅れること3年だった。

(29) サイバー攻撃で倒産の危機
2005年、社員数が50人をこえたころ、会社は危機に直面する。「カカクコム」へのサイバー攻撃を受け、サイトの閉鎖で売上がなくなり存続の危機に陥る。サイバー攻撃は、日本の企業を狙った海外からの初の大規模攻撃で、サイト閲覧者に対して無差別にコンピュータウィルスを送りつけるものだった。当時、「カカクコム」のユーザー数は月間640万人、サイトを閉鎖した後、サーバーを入れ替え、システムを強化する。
 
(30) 3週間後にサイトを再開
「新サーバーとシステム」で営業再開したのは攻撃から3週間後になる。地域の警察署は被害届を受理しなかったが、警察庁は事件として取り上げ、インターポールを通じて捜査を始める。「カカクコム」が被害者であることがわかり、「カカクコムは後ろめたいことがある」とのマスコミ報道も減る。
 
(31) 会食用のサイト「食べログ」を企画
「カカクコム」の成長に伴い、穐田社長の会食数が増加する。人気の店を探すため男性雑誌「BRIO」や「dancyu」を参考にしていく。ビジネス客からすれば、食事がおいしいのは当然として、「個室のある店か、主人の人柄はいいのか、サービスはいいのか」など、使う側にとっての利便性情報が重要になる。穐田社長は、「ユーザー視点のグルメサイトを自分たちで作ろう」と、新サイト「食べログ」を計画する。
 
(32)「グルメサイト」買収が不成立
「食べログ」サイト開設のため、グルメサイト「東京レストランガイド」買収を進めたが不成立になる。「東京レストランガイド」を買収して広告を集め、有料会員を設定すれば、堅実に収益をあげられる事業になると考えていた。「東京レストランガイド」の社長と買収の合意をするが、相手の方針が変わり白紙にもどり、自力で「食べログ」サイト事業を展開する。
 
(33) 2005年「食べログ」開始、成功
グルメサイト「東京レストランガイド」の買収資金を投入して自力で「食
べログ」サイトを運営する。2006年利用者が100万人を超え、2010年には
1500万人を超えるまでに成長する。デジタルコンテンツ視聴率レポート
(2022年6~7月)によると、飲食店の予約サービス上位は、①「食べロ
グ・1850万人」②「ホットペッパーグルメ・811万人」③「ぐるなび・736
万」になる。人気のあったグルメ雑誌は、「dancyu」を除き廃刊にな
る。穐田さんは「食べログ」の成功理由は「運と気合」だと総括する。

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