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【韓国・NELL】存在自体が美しい夜の幻想であってほしい

Nell(넬) LIVE IN JAPAN 東京・恵比寿リキッドルームに静かに登場した彼らはまた、静かに舞台を去っていったように見えました。2017年11月13日

私をK-ROCKの入り口にひきづり込ませてくれた憧れのNELL。NELLそのものをK-ROCKと呼ぶ必要は一切ない、むしろ似合わないのかもしれない。

1999年に結成。
喜びと哀しみが共存する感性豊かなサウンドと叙情的な歌詞で、唯一無二の世界観を描く韓国を代表するロックバンド。
ダウナーでサイケデリックなサウンドが特徴、「Stay」「記憶を歩く時間(Time Working On Memory)」「Four Times Around the Sun」などのヒット曲で知られる。Space bohemian公式HP 

NELL CREATIVEMAN PRODUCTIONS より引用

メンバー全員の顔と名前を十分に知らぬまま、彼らの音楽と彼らの音楽に染まるファンの姿に惚れて1年半飽きることなく聴き続けてきたのだ。こんなにも閉ざされた箱の中で聴く彼らの音楽は、初めて野外で聞いた時のそれとは全くの別のものだった。

上下左右から全身で音を受け止めるのに身体が必死になりながら、ぶち抜かれる寸前の心臓付近に手を持っていって守りながら、同じ空間に立つことができたという幸せな感覚に陥る。

慣れない雰囲気に上手に乗り切れないまま次々にきき慣れた歌が始まり、ドラムのジェウォンさんの合図だけを頼りに手拍子をした。身体をゆらしていると目の前のジョンフンさんの汗が本格的になり、ジョンワンさんの歌う姿に目を見張り、ジェギョンさんの音を聴き逃すまいと必死になった。

許されていた写真撮影の背中がみたい

公演中に写真を取るなんてタブー、日本のコンサートマナー的にはそれが一般的だろう。今日はそれが許されていた。

プツンと何かが途切れてみたいに、手元にIphoneを握りしめて今にも始まりそうなステージに視線を集中させた。でも、結局はIphoneの画面を見つめていた時間なんてほんのわずかだった。一瞬でも「たくさん撮ってこの日を記憶しておきたい」と思った写真撮影は、歌に集中できなくなるからと最小限にとどめて、一人一人の存在を目に焼き付けることの方がずっと意味があると思った。

彼らだって、カメラやiphoneの背中を向けられながら演奏するよりも、自分たちを見つめながら体を揺らすファンたちの幸せそうな表情を眺めるほうがずっと気分がいいはずだ。それを尊重したいと思った。

「幸せな時間を過ごさせてもらった」という言葉で足りるだろうか。

全てがおわり、音の反動を受け続けた脚は、会場を去る時には他人のものみたいにふらついていて、地面から1㎝のところを浮遊していた。

私はあの「仁川の夏の夜の幻想」を思い続けて1年半を過ごした。きっと2年3年とこの公演を待ちわびていた私よりもNELL をよく知っている、長くNELLを愛するファンがそこに集ったのだから。

いまこの文章を見ているファンのみなさんなら、私なんかよりずーーーっとそれを知っているでしょう?

韓国で出会った彼らが、日本のそこに立ってくれてたこと自体が何よりも価値のあることだった。私はメンバーひとりひとりのことをあまりよく知らない。東京で初めてその存在を認識したと言ってしまう方がずっと、本当のことに近い。

彼らの音楽だけを楽しむのなら、むしろそれ以外のことは知らない方がいいのだとさえ思う。だけど、一度ファンになってしまえば音楽とはまた別の何かを知りたくなってしまうのがファン心というものだ。過去の記事は読むと良くも悪くも曲のイメージに影響する。数少ない情報源だからこそありがたい存在でありながら、読むとなるとためらわれる。

他の好きなアーティストの記事ならばわたしは好んで読みあさる。読むことでもっと音楽が楽しめると考えているから。しかしNELLを前にすると、舞台上で全てが完結してしまうような、それ以外の記事は解説文に過ぎないのだと思い知らされたのだ。解説文を読むことは、彼らが音楽で言わんとしていることとはどこか遠いところに連れて行かれるんじゃないかって、目をただただ動かすこと以外は躊躇われた。

「NELLのすべて」

もしそんな本があったなら、間違いなく買う。買うけれども、読まないだろう。いつか「読んでみようか」と思う日がくるとしたら、その日は、私がNELLから遠ざかる日になる。

夢を見ているようだった野外フェスと、ライブハウスの違いは間違いなくここに存在していた

飛び散る汗が見えるほどすぐそこで、いつも聴いているあの歌を、目の前で演奏してくれていること。人間味のある仕草を重ね、公演が終わりに向かうにつれて、あの日夢のようだった存在を現実だと認めることができる。
私がこの日感じていた率直な思いだ。

「NELLは本当に、私の目の前のそこにいました」

そんなことを考えながら、この日は帰路につこうと歩いていたら不覚にも終電を逃す羽目になった。ペンタポートで初めてNellに惚れたの夏の日の夜、なぜか帰る足が絶たれてプピョンで一夜を明かしたときの記憶と重なり、それすらも温かくて笑えた。

夢か現実かよくわからぬままの勢いで終演後のSNSにコメントをしに行き、彼らのSNSは思っていたよりもコメント数が少ないことに安心感と焦りを覚え、翌日も昨夜の余韻に浸り「これが明日もずっと続けばいいのに」と願わずにはいられなかった。そんなのはやはり幻想にすぎない、全部忘れてしまった。

だからこう思う。

「書き残しておかないと、思ってたより早い未来には消えてなくなっちゃう」

大好きなVain Hopeの生歌は叶わなかったが、あるかもわからない次への楽しみにとっておくことができる。日本語で分かる範囲のNellの情報は限られている。この日を迎えるまで、気軽に彼らを追うことはあまり容易では無かった。

だからこそ、「NELLは音が全て」と感じざるを得ないのかもしれない。全てを知りたいと求める限り「音を聞き続ける」それだけで満たされる。

NELLの全てが音である限りNELLの全てを語られることは無いだろう