モンスター

もう他人の脇役じゃない、指揮を取るのはいつだってワタシ

文学の美しさとは何か。一定の秩序と調和の下で日常的な言葉を変換し、一般的な言葉とは異なった美しさを探すこと。言葉の彫琢ね。特に、詩は言葉の音楽性や含蓄及び形成性を有機的に調和させ、美しさを実現しているの。 (モンスター〜私だけのラブスターより 引用)

一体なんのことだろうかと、このセリフを聞いたとき手元のノートに書き留めた。意味がわからず、何度か巻き戻しながら該当箇所をじっくり噛み砕こうと試みた。

韓国ドラマ【モンスター〜私だけのラブスター〜】原題:몬스타(Monstar) 

「トキメキ☆成均館スキャンダル」「シンデレラのお姉さん」のキム・ウォンソク監督の新作として放送前から注目を浴びていたミュージックドラマ「モンスター~私だけのラブスター~」。 売れっ子アイドルが謹慎処分の一環として通うことになった 高校で自身の存在を知らない少女に出会い、音楽サークルの 仲間として活動しながら徐々に芽生える恋心と、音楽を通じて 新しく夢を育てていく成長ストーリーを描いた作品。  Mnetモンスター〜私だけのラブスター〜番組紹介 より引用

ヒロインは、帰国子女のミン・セイ。ヒーローは、国民的アイドルのソルチャン。二人の高校生が通うのは芸能高校のような専門校ではない。でも、いつも不思議だった。二人を取り巻く登場人物たちの一部は、ミュージックドラマにふさわしいハイセンスな音楽技術の持ち主でありながらそれを隠して生活していた。また、学校での授業テーマはまるで大学の総合教養科目で扱うようなものだった。

韓国の名曲たちが登場人物たちの時計の針を進めているかのように、数多くの挿入歌無くしてこの青春物語が成長することはなかったと、誰しもが気づいたことだろう。実際に、1話あたり3〜5曲を差し込んでいた。K音楽好きにとって新しい音楽との喜ばしい出会いだ。特筆すべきなのは、それが雰囲気作りのためのBGMではなく登場人物たちによる生歌生演奏だということ。同じシーンを繰り返し再生したからもう新鮮さは薄れてしまったけれど、初めてそのシーンたちを迎える度に気分が高揚し頰が緩んだ。曲が好みだとか、歌う姿に惚れ惚れしたのはまぎれもない事実。物語を語る上で探るべきは音楽か?それとも詩に限るのか?もしくは全く別の何かなのか?そもそも作詞と作曲が分けられるのと同じ感覚で詩と音楽を区別することに対して、どこか引っ掛かりがあった。

音楽(おんがく、英: music)の定義には、「音による芸術」といったものから「音による時間の表現」といったものまで、様々なものがある。音楽は、ある音を選好し、ある音を選好しない、という人間の性質に依存する。音楽には以下の3つの要件がある。【材料に音を用いる。音の性質を利用して組み合わせる。時間の流れの中で材料(音)を組み合わせる。】西洋音楽では、リズム(律動)、メロディー(旋律)、ハーモニー(和声)をもつものが音楽とされる。そして、このような特性をもつ音を様々な方法で発したり、聴いたり、想像したり、楽しむ行為のことをも指す。広くは人間が楽しめたり、意味を感じたりすることのできる音全体のことをさす場合もある。音楽-wikipediaより一部抜粋

一般的な知見に頼ってモヤモヤを晴らしたいところだったが複雑さゆえ早々に諦めた。だからここでは、物語からのヒントに乗っ取って、話をする。

歌を流すから詩だと思ってきいてみて。(モンスター〜私だけのラブスター〜より引用)

この記事の冒頭のセリフに続く一文だ。あの時セリフをノートに書き留めたように、第1話〜第11話中盤までの挿入歌の歌詞と情報を書き出した(44曲、うち回想シーン/歌なしシーン/メロディーのみ含む)。本来ならば最終の第16話まで全曲書き出すところだが、あろうことか動画配信サイトの配信期限に間に合わなかった。この地道な作業に意味があるのかなんて、考え出したらキリがない。全てを済ました今これだけは自信を持って言えるのだが、メロディーを聞かずとも詩と状況説明を照らし合わせれば該当の音楽が勝手に再生される身体になってしまったようだ。

過ぎ去った時間に全ての人を誘うはじまりの曲

지난 (直訳:過ぎた日) / 유재하(ユ・ジェハ) 】

ドラマの1曲目は、登場人物たちと同じ学生時代の思い出の中に視聴者をタイムスリップさせる詩。全ての過去を美しいものとして記憶することで、いつか過去になるであろう未来への希望を歌っている。また、下記の参考シーンを見ると、セイがソルチャンの存在を知らないという設定上おかしな状況に思える。ソルチャン達はユ・ジェハさんの曲をカバーアレンジし、原曲は物語の中にも確かに存在していると考えるのがここでは自然だ。ドラマ全体を通しても原曲の存在ありきで話が展開されていく。数多くの名曲が世代間のギャップを埋めるように散りばめられ、幅広い年代にヒットしたことも頷ける。(参考シーン)

ソルチャンとセイの音楽趣向の違いを垣間みれる曲

Trouble Maker / Trouble Maker(현아&JS)

実は、この曲に限っては詩による解釈が難しかった。詩に唇を盛り込んでいる点を考えると物語全体とも調和しているので、他の主要曲にまぎれたドラマ全体の要になりうる曲のようだった。演出/作曲において優れた才能をもつソルチャン、詩に感情を重ねているセイ。譜面を見るなりセイは一度拒絶したが、一概にソルチャンが原因とは思えず言及しがいがある。原曲を知らずに聴くとソルチャンからセイとソヌへの挑発的なメッセージか、さすがスターだと言わしめんばかりの異端児感溢れる曲として適当だったか、どちらかだと思った。

従来のアイドルたちが披露した10代向けの趣向ではなくセクシーさを全面に押し出した、まさに19禁のステージだった。Trouble Maker-kstyleより一部抜粋

挑戦的と言われた原曲のセクシーさ溢れるコンセプトは、ダンスなしでは全く感じられなかった。シンセサイザーを用いた視覚的に新鮮味のある武器により、声が最上級の楽器であることを主張していた。ソルチャンは、どんなキャッチーな音楽でも異なる世界観を表現する術があり、それでこそスターだと伝えたかったのだろうか。また、原曲のコンセプトとセイのキャラクターがマッチしがたいことが感情表現派のセイが拒絶した理由になりうる。ただしソルチャンの中にいる想像上のセイならばそうとは言い切れない。だからTrouble Makerはソルチャンの中に存在するセイへ向けたメッセージだと考えている。コマは短いが、3人のセッションは華のあるシーンだ。

キム・ナナの恋のモチーフになった曲

(直訳:沼) / 조관우(チョ・グァヌ)

ナナはまるでこの歌から生まれてきたような女の子だった。歌詞と状況がピタリとリンクするように、ここでの全ての演出が詞に基づいていた。登場人物の心情と伝えたい想いを表現する曲がほとんどだが、詩の内容を忠実に再現しているのは44曲のうちこの1曲のみ。大切な恋の思い出はナナの記憶の中だけに留まっている。もしこの物語の大半がこのような演出だったとしたら、この記事を書こうとはしなかった。(参考シーン)

この3曲はごく一部に過ぎないし、ドラマの中では大トリ級の楽曲シーンが他に存在する。構成上目立ち難かったとしても、詩を読みといてみると実はドラマ全体に働きかける空気のような存在を担っていたり、登場人物たちの言葉や仕草だけでは考えが及ばなかった本当の姿が浮き彫りになる。もっと言うと、本当の姿は詩を読むとわかる。韓国音楽界の名曲・人気曲をそのまま盛り込む事で懐かしさや切なさなどの視聴者の過去の心情をダイレクトに引き出してくれた。ミュージックドラマでありながらオリジナル曲が少ないのは、初めからそれが狙いだから必要性に乏しいかったのかもしれない。

視聴者の方なら、ドラマ製作にあたり音楽が先か脚本が先かを考える瞬間が一度や二度あったと思う。単純に、感傷的なシーンで感情移入を誘うためだけならメロディーがそれっぽく、歌詞もそれっぽく似合っているだけでよかったはずだ。そうすると、原曲のイメージをドラマが塗り替えてしまうことだってある。曲を聴くとヒロインの切なげな表情が浮かんでくるように。しかし、これだけ名曲を取り入れて視聴者の過去の綺麗な記憶を引き出そうとしていてあえてそうする必要はない。楽曲を知らない人や世代のために、セイやソルチャン、ソヌ、ナナ、ウナ、ギュドン、ドナムがいてくれたのだから。この物語のヒロインはセイ、ヒーローがソルチャンなのは周知の事実だけれど、実際はそうじゃないよねって気づく瞬間がある。物語の時間を進めてくれていた挿入歌にはそれぞれ違った主人公がいるから。

多様な音楽の魅力に惑わされた人がここにいる。そして、詩に注目したらもう一つの魅力に出会えた人がここにいる。似たような設定・展開に出会うたびに“またか”“で韓流あるある”と言い、頭打ち状態から脱しようとしていないのは見苦しい。わざわざ詩を書きすことはしないでいい。だけど、どんな物語にも楽しみを見いだせるのはワタシしかいないことを覚えておいてほしい。