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高校、大学で日本一になったプロサッカー選手のセカンドキャリアは地獄の始まりだった

どうもはじめまして、上條宏晃です。
今回は僕のサッカー選手だった頃のセカンドキャリアの考え方や引退、サラリーマンにな ってからリアルなお話やマインドの面などお伝え出来たらと思います。

まず初めに簡単な自己紹介ですが、僕は千葉県千葉市で生まれ幼稚園年少からサッカーと 出会い、それから 22 年間は本当にサッカーしかしてこなかったです。
特に勉強もせず、学校ではクラスのガキ大将でみたいな存在でした。
サッカーバカという言葉がピッタリな少年でした。 小学校は地元のクラブチーム・中学校は部活・高校は流通経済大学柏、大学はそのまま流経 大学。

その後ファジアーノ岡山に入団して 4 年間プレーしました。 本当にサッカーしかしていない 22 年間だなぁと今振り返っても思います。
自己紹介深く話せば長くなってしまうのでここまでで・・・(笑)
4 年間ファジアーノ岡山の選手として所属させて頂きましたが、僕自身ケガがめちゃく ちゃ多かったので、実はプレーしていたのは 1 年間くらいでした。ここも深く話せばめち ゃめちゃ長くなりますのでまた今度。(笑)

今考えればですが、当時の僕はケガが多いのにも関わらずセカンドキャリアの事なんて 1 ミ リも考えていなかった。心のどこかでいつか絶対ブレイクして有名になると思っていた。
ろくに努力もせずに根拠のない自信はもっていました。 今振り返るととても無知ですごく恥ずかしくなります。
サッカー選手になる事が夢で、その後の事がおろそかになっていました。
あんなに高校の時に死ぬ思いで練習して上手くなったのに、その努力が大学・プロと出来な かったのが僕のサッカー人生の最大の過ちだと思っています。(大学も 4 年間中 3 年間リハ ビリ生活をしています。笑)

そんなこんなで特に何も考えていない中、結果も残せないまま 4 年目の夏に強化部に呼ば れました。
実績からみれば切られてもしょうがないとは思っていましたけど、あと 1 年はあるだろう と甘い考えをしていました。

そこで GM から「来年は契約しない」こう告げられました。
最初は頭が真っ白になりました。俺はここから何すればいいんだろう? どん底に突き落とされた気持ちでした。サッカーをとったら俺にはなんも残らないのでは ないかと。
ただ僕自身がサッカーを続ける理由としては、もう自分の為ではなく妻・両親の為だけでした。
僕の中ではサッカー選手としての限界はもう見えていましたから。

だから僕は戦力外通告されてすぐに妻と両親にサッカーを続けてほしいか聞きました。
すると意外な答えが…
どちらももう引退したらと言ってくれました。

理由は簡単でした。
リハビリ生活で良くも悪くも辛い所をずっと見ていてくれて、これ以上は無理してほしく ないからという事でした。
この時初めて肩の力がすっと落ち、今まで抱えていたなにかが無くなり楽な気持になった のを今でも覚えています。
妻、両親も僕と同じように辛い思いを共感してくれていたんだ。常に僕は支えられ勇気づけ られていたんだと。
妻・両親には感謝しかなかった。感謝してもしきれなかったです。 欲を言えばバリバリに活躍していい思いをさせてあげたかった。
ここが唯一の今でも思うサッカー選手になった心残りかなぁ。 子供が産まれてからは抱っこして入場したかったとも思いましたが。

そして相談をした次の日にはチームに引退すると伝えに行きました。

ただその当時の僕は無知でなにもわからなかったので、特にこれをしたいというものがありませんでした。わからないがわからない状況でした。
そんな中漠然と小さい頃から密かに思っていた、社長になりたいと思いました。笑
本当にこれだけ見るとバカですよね。笑

その時思ったのがまだいきなりやるにはリスクが大きいし、現実味がない。
それに何で社長になったらいいかもノープラン、社長になるにはビジネスを学ばないと、だ からビジネスでキツイところに行こう、 キツイと言えば保険と不動産だ、じゃあどっちかに行こうと思いました。
こんな感じで保険会社に入社しました。
もう理由が小学生みたいですよね。笑

入社した理由とか経緯もたくさんあるんですが今回は割愛します。

まず入社して思ったのが、こんなに拘束時間が長いのかと思いました。 サッカー選手は自分の時間がたくさんあったなと。
そして面談でしっかりと話しを聞けていなかった僕はろくに条件も確認せずに入社してし まいました。
僕の頭の中では車の保険がメインで月 30 万でした。 ただ蓋を開けると入社して 2 週間は缶詰で朝 9 時から 18 時までみっちり勉強。
しかも話を聞くと外資系の保険だったので日本で 2 ヵ月くらいで教え込む内容を 1 日で。

プラス毎日テストがあり平均 80 点以上とれなかったらクビという条件でした。
最初のテストで確か僕 55 点くらいだったかなぁ。笑
絶望しましたね。
ただやると決めていたのでそこからは人生で初めて勉強をしましたね。
朝 9 時~18 時まで勉強して家に帰り、ご飯と風呂済ませて 9 時~夜中 3 時まで死ぬ気で勉 強しましたね。
この生活を 2 週間。
もうね、人生で 1 番肌が荒れました。
意外に敏感肌でしたね。笑

そんなこんなで頑張ったかいもあってクラスで 1 番最初に 100 点取ったりとなんとかクリ ア出来ました。
その後契約も 1 件取れ 3 カ月のノルマは全部クリア出来ました。
でも 3 ヵ月で辞めてしまいました。
実は 30 万も貰えなかったんですよ。
3 ヵ月は使用期間だから 4 カ月目からもらえるか確認 したら違いました。しばらくは変わらないよと。 正直自分の認識の甘さ、社会の知らなさを痛感しました。
本当は 3 年間は絶対続けたかったけど、家庭もあり手取り 10 何万じゃやっていけるがしな かった。
ただいい経験は出来たと思っています。
そこでビジネスマナーやテレクリ営業などは学ばせて頂きましたから。感謝はしています。
しかしこの当時は自分の社会イメージとそのギャップについていけてない自分もいたのは事実です。今でいうミスマッチだったのかもしれません。

そこで 2 社目は第一条件は稼げる事として縁があった不動産に入社しました。
ここはそこの店長にとても良くしてもらって「僕はいつか社長になりたいだから 3 年間修業させてくれ、絶対にすぐに成果出す」と言って入社させて頂きました。
入社ヒストリーはこちらもとりあえず割愛で。

入社してすぐに僕は細かい目標と大きい目標を立てました。 大きい目標は全国営業ナンバーワンを一回でもとると。 細かい目標はその都度その都度変えていました。
まずは賃貸営業だったので、物件を覚えたり、昼休みなどは飯を食わずに駅周辺の物件を確かめて覚えて、出来る先輩のマネをしたり、わからない事は全部店長に聞いて。 年齢が下の人に関係なく怒られても邪魔なプライドは全て捨てて、0から這い上がると。
ここで初めていい意味でマインドの部分で社会人になれたのかと思います。

外に出ればサッカー選手なんて肩書は全く関係ないです。 サッカー界はビジネスの世界ではかなり小さいマーケット。
サッカー好きな人には元サッカー選手と言えば興味を持ってくれるが、それは極わずか。
ビジネスマン上條宏晃を評価して頂かないと何も意味がない。
ただここで思ったのがみんな努力の仕方をしらない人達が多かったし、やってやろうと思うマインドの人が少なかった。
高校の時シュートが下手だからシュート練習する、体力がないから走り込むなど当たりま にやっていた事が社会に出るとわからない人が多い気がしました。 営業が苦手なら隠れてロープレする、物件知識がないならひたすら反復して覚える。
単純な事だけど継続できない人が沢山いると感じたのが事実でした。

だからこそこの 3 年間で行けるとこまで行きたいと思いました。

結果は 1 年目に単月で全国 1 位を 3 年目に店長もやらせてもらいました。
間違いなくこの 3 年間で色々なマインド変化がありました。ビジネスマンとしてのスキル も上がったと思うし、僕の営業スタイルのベースになったと思います。

そして自分の中で 3 年間やって転職と決めていたので 3 年間ピッタリで退職しました。

本来なら社長の夢があったので、何かしようとも考えていたのですがこの不動産で学んだ 3 年間でやりたい事が見つかっていました。
まずはもう少し勉強したい、まだ社長は自分には早すぎると思いました。
そしてやりたい事は自分と同じ経験をしている人を助けたいと強く思っていました。 セカンドキャリア・デュアルキャリアをサポートしたいと。

自分でもこのマインド変化には毎回ビックリしてます。笑
昔の僕を知っている人ならわかると思うのですが、僕という人間は人に興味がなかったし。
高校の時などは一匹オオカミでした、群れるのが好きじゃなかった。
それがかっこいいとも思っていました。
そんな僕がこんな気持ちになるのは、本当にビックリです。
今でも昔に関わっていた人には口をそろえて言われます。
「大人になったな」っと。笑

そんなこんなで今は縁あって人材業界でセカンドキャリアや体育会の学生に就活の支援をして毎日勉強しています。 どの会社に入ってもやる事は同じ、ただただ努力して行動する事それに尽きるんじゃないかなとも思っています。

縁あって今の会社に入社できセカンドキャリアについて色々調べたりして思ったのですが、 全然疎かになっていると感じました。
セカンドキャリア、セカンドキャリアって今はかなり浸透してきているますけど、実体は中身は全然進んでいない。支援出来ていない。これが現実だと思います。
ここからは僕の考えですけど、アスリート側にも企業側にも問題があると思っています。 まずアスリート側は今回はサッカー界だけの話しで絞らせてもらいますが、良くも悪くも サッカーだけやっていればいい。プライドもあるし、サッカーに今向き合わなきゃ行けない。
古くからの日本の文化みたいのが今も残っていると思います。 そのせいで視野が狭くなってしまって他の情報を取り入れようとはしていません。
これでいいという人の意見もいると思います。
ただ僕は実際に元プロ選手の面談をしていると口をそろえたかのようにみんないう事がありますそれは、「選手の時に時間があったからあの時資格とか色々動けばよかった」っと時間の使い方の大切さに引退して気づく人がほとんどです。
ここを僕はすごく変えたいと思っています。
企業側も今でこそアスリートを評価してくれる企業は増えてきましたが、まだまだ足らな いと思っています。 アスリートの価値、間違いなくビジネスに出ても活躍できるマインドを持っている人がたくさんいます。
年齢とかはあるかもしれないがもっと評価して頂きたいし、サッカー選手上がりが活躍する社会にしたいと本気で思っています。 たまに色んな企業に話すと笑われますけど。笑
この何か月人材をやっていると思うのがまずは根っこの部分から変えていかないと今は難しいのかなと思っています。 なので大学生・高校生のうちからしっかりとセカンドキャンリアの大切さ、むしろライフプ ランの大切さを伝えれるスキームが必要だと思います。
今の選手には、根拠強く伝える事しか出来ないですけど、続ける事が大切だと思っています。

最後に僕の結婚式で元ファジアーノ岡山の社長が言ったこの言葉を思い出しました。
「社会の荒波がこれから上條を襲います。社会とは人と人の繋がり・・・」この言葉が今なら本当に理解できます。
本当に人と人の繋がりで出会う人に無駄な人などいません。 僕は昔嫌いな人も沢山いました。笑
ただ本当にどこで繋がるかはわからないですし、これもマインド変化ですが嫌いな人から 学べる事も沢山あるんですよね。笑

僕はまだ今夢の途中でやりたい事が沢山あります。 全力でポジティブに行動して、勉強して、いつかしっかりとアスリートのサポートしていきたいと思います。僕でもサラリーマンになれるんだからアスリートは誰でもできるはずです!って僕を知っていた人なら思うはずです。 大げさではありますが、僕がいい例でいい見本になれるように一生懸命頑張っていきたいと思っています。
長文で申し訳ないです💦
最後まで読んで頂き誠にありがとうございました🙇‍♂️

PS.これでも大分割愛したつもり…笑





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