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[小説]苹果「なんとなくのアルパカ」

「あのアルパカたち、どこいっちゃったんだろうね」
 ヨーコさんが呟いた。ヨーコさんは頬杖をつきながら、窓の外を見ている。午後の日差しが差し込んで、ヨーコさんの頬をふんわりと金色に包んでいる。ヨーコさんの、綺麗に切り揃えられた黒髪の下から、白い首が覗いている。ヨーコさんのショート・ボブは、いつも艶やかで格好よくて、私は少し羨ましくなる。
「アルパカ?」
 私は聞き返した。こぢんまりとした喫茶店の店内に、静かなジャズが流れている。ヨーコさんの華奢な指が、白いカップに触れていて、そのカップから湯気が昇っている。
 ヨーコさんは猫舌だから、ヨーコさんのエスプレッソは全然減っていない。私が頼んだカプチーノは、もう半分くらいになっている。
「ほら、アルパカカフェ、あったじゃない。川の向こう側に」
 ヨーコさんは窓の外を指さした。この喫茶店は川沿いの古いビルの三階にあって、窓際の席からは、川の流れを見下ろせる。川の向こうには、おしゃれな店やオフィスの並ぶ区画が広がっている。
 そういえば、数年前そんな店が流行ったような気もする。私は薄ぼんやりと思い出す。時々店員が数匹のアルパカを河川敷に連れて来て、草を食べさせていた。もう流行らなくなって、潰れてしまったんだっけ。
「行くとこあったのかな、アルパカ」
 ヨーコさんがふいにこちらを見た。私と目が合う。ヨーコさんの瞳が、飴色に光っている。
 初恋だ、と思う。
 本当は初恋ではない。本当の初恋は中学生で済んだ。それからも何度か恋はしてきた。ついでに付け加えれば、私には彼氏がいる。
 だから、全然初恋ではないのだ。だけど、ヨーコさんの視線や指先は、時々、初恋みたいに鮮烈で甘い。それで、ふと、初恋だなんて考えてしまうのだ。そもそも恋ですらないのに。
 ヨーコさんはしなやかな手つきでカップを口元に運んだ。
「やっと冷めてきた」
 そう言って、肩をすくめた。
「カプチーノ、おいしい?」
 ヨーコさんが私のカプチーノをじっと見つめる。ヨーコさんは基本、自分に素直な人だ。
ヨーコさんの瞳が私の手元を見つめると、そわそわする。私は自分のカップをヨーコさんに渡した。
 私のカップの縁に、ヨーコさんの赤い唇が重なった。
ヨーコさんは私に自分のエスプレッソを勧めた。エスプレッソのカップには、ヨーコさんの口紅が薄っすらついていた。同じところに私は口をつけた。ほろ苦い。
 私とヨーコさんは時々お茶をするだけの仲だ。私はヨーコさんのことをそんなに知らないし、ヨーコさんだって同じだろう。
 私たちの会話は取り止めがない。脈絡もない。ふと盛り上がったり、ずっと静かなままだったりする。それで私は安心なのだ。

 ヨーコさんとはバイトで知り合った。私とヨーコさんはレストランのホールをしていた。私が大学一年生、ヨーコさんが四年生だった。ヨーコさんと私は、よくシフトが重なった。
 ヨーコさんと親しくなる前から、ヨーコさんの声が気になっていた。ヨーコさんの声は少し擦れている。私の地声より少し高いくらいの擦れた声で、ちょっと変わった抑揚で話す。そのため、小さな声でも、ヨーコさんの声はすぐわかった。バイトスタッフとの雑談のときも、接客のときも、電話を取る時も、ヨーコさんの声の高さは変わらない。そのせいで、注文を取るヨーコさんの声は、少しぶっきらぼうに聞こえた。他のバイトの子たちとヨーコさんはなんとなく違った。

 たしか私の忘れ物を、ヨーコさんが届けてくれたのだと思う。細かいことは忘れてしまったが、ヨーコさんから、忘れ物を預かっているという連絡が来たので、翌日カフェで会って渡してもらうことにした、とかそういう理由で、ヨーコさんと初めてお茶をした。
 ヨーコさんとちゃんと話したのは、そのときが初めてだった。ヨーコさんと趣味が一緒だったり、性格が似ていたりするわけではなかった。でも、話しやすかった。ヨーコさんには、気張らずに自分の話したいことだけ話せる。それに沈黙が気にならない。
 ヨーコさんも同じふうに感じてくれたのかもしれない。私は時々ヨーコさんをお茶に誘うようになったし、ヨーコさんからも時々誘われた。
 しばらくして、ヨーコさんはバイトを辞めた。大学を卒業して、この街の事務所に就職した。私は大学二年生になった。
 時々お茶をする関係は続いた。


 ヨーコさんに出会って、ヨーコさんとお茶に行くくらい仲がよくなった頃、私は髪を切った。ヨーコさんみたいになりたかった。
 結果として、ヨーコさんのようにはならなかった。私の髪は、柔らかなくせ毛で色も薄く、ヨーコさんの真っ黒な艶髪とはほど遠い。けれど、私は髪の短い私を気に入った。鏡の前でいろいろな表情を作った。ショートにするとさっぱりして、笑顔がよく映える気がした。

 髪を切って、自分の借りているアパートの部屋に帰ると、彼氏が来ていた。カーペットの上に寝ころんで、スマホゲームをしていた。
彼は寝ころんだまま、髪を切った私をちらっと見て、
「長い髪を撫でるのが好きだったのに」
 と言った。そしてまた視線をスマホ画面に戻した。
 そんなことを言う彼を愚鈍だと思ったけど、なにも言わなかった。

 本人に言ったことはないけれど、私の彼氏はアルパカみたいな男だ。
 見かけ上は魅力的だけれど、ちゃんと見るとそうでもない。そしてなにを考えているのかよくわからない。まつ毛が濃くて細い垂れ目と、くせ毛風のパーマをかけた髪も、アルパカに似ている。
 何を考えているかよくわからないくせに、彼は平然と私の領域を踏み越える。私も、なんとなくそれを許してしまう。渡すつもりはなかったはずなのに、なんとなくの気分で合鍵を渡してしまった。それ以来ほとんど毎日、勝手な時間に私の部屋に上がり込んでは、勝手にくつろいでいる。夜になれば、私になんの許可も取らずに、私の寝ているベッドに潜り込んでくる。
私の部屋なのに、私の好きだったファッション雑誌や、パンとスイーツの雑誌は減っていった。彼氏が好きな漫画雑誌ばかりが増えた。
 それを、嫌だとも嬉しいとも思えないのだ、私は。
 アルパカみたいにぼんやりしているのは、私のほうかもしれない。

「女が化粧する意味って、わからないんだよな。そのままのほうが素朴でいいのに」
 以前、彼氏にこう言われた。
 それ以来、私は化粧をしなくなった。
 化粧をするのは、自分のためだと思っていたけれど、彼氏にこんなことを言われただけで化粧をやめてしまうのだから、自分のためではなかったのかもしれない。
 化粧は大学に入ってから始めた。ファッション誌の見様見真似だったけれど、だんだん上達して、鏡の中の自分が可愛くなっていくのが好きだった。彼にそんなことを言われる前は、大学に行くだけでも、化粧は毎日欠かさなかった。服装にも気を使っていた。
 化粧をやめてから、朝は授業が始まるぎりぎりまで寝ているようになった。ドラッグ・ストアに行っては少しずつ集めていたシャドウやリップは、洗面所の下にしまい切りになった。

 それでも、ヨーコさんと会う時だけ、私は化粧をする。ヨーコさんはいつも化粧をしている。女の子が化粧をする意味を、ヨーコさんはよくわかっている気がする。
 彼氏に見られるのがなんとなく嫌で、ヨーコさんに会う時も、家では化粧をしない。
 私は洗面所の下をこっそり開けて、大きく膨らんだ化粧ポーチを取り出す。そして、お気に入りのものだけを選んで、小さなポーチに移し替える。そして駅やデパートのトイレに入ると、思う存分身を繕う。
 肌の色を整え、目元や唇に色を乗せる。自分の顔が明るくなってゆく。どんどん、今日が楽しみになる。ヨーコさんに会うのが、楽しみになる。

 一度、ヨーコさんみたいな化粧をしようとしたことがある。ヨーコさんの化粧は他の女の子と少し違う。ヨーコさんは黒のアイラインをくっきりと引く。口紅ははっきりとした赤を塗る。だから、ヨーコさんは格好いい。
 駅のトイレの鏡の前で、私も、アイラインを長く描いた。真っ赤な口紅を塗った。全然似合わなかった。私は全部化粧を落として、いつもの私らしいメイクに戻した。
 
 その日、ヨーコさんに彼氏の話をした。ヨーコさんはたまに頷きながら聞いていた。
 大学の女の子たちのように、そんな彼氏のどこが良いの? とか、なんで別れないの? とか、ヨーコさんは聞かなかった。ダメな男って尽くしちゃうよね、みたいな、無責任な共感もなかった。そのことに、すごくほっとした。
「ヨーコさんには、彼氏、いるの?」
 私はヨーコさんに聞いた。そんな無粋なこと、聞かないほうがいいと思ったけれど、聞いてしまった。
 ヨーコさんは首を振った。
「じゃあ、好きな人は?」
「いたことはあるよ」
 ヨーコさんが静かに言った。
「でも、合わないんだよね」
 ヨーコさんは、目を伏して、少し笑った。
「男の人って、自分のことばかり考えているじゃない? 自分を強く、偉く見せることばかり。私も、自分のことしか考えられないの。自我が強いから。だから、男の人とは合わない」
 いつもの擦れた声だった。なんとなく寂しそうだった。


 ヨーコさんが部屋に来る。
 私が誘ったのだ。おいしいコーヒー淹れるよ、って。
そのおいしいコーヒーは、輸入食品店になんとなく入ったときに見つけた。ヨーコさんと会う前に、化粧をしてから時間があって、それで、駅ビルに入っている輸入食品店に立ち入ったのだ。
 アルパカのパッケージのコーヒーがあった。ヨーコさんと飲みたいと思った。

「明日、ここに友だちが遊びに来るの」
 ヨーコさんが来る前の日、いつものごとく私の部屋でだらだらしていた彼氏に、言った。
「片付けしたいから、午後には帰って欲しい。それで明日は来ないでほしい」
 彼にそんなことを言えたのは、初めてだった。
「友だちって、女?」
 私は頷いた。ヨーコさんの名前は出さなかった。なんとなく出したくなかった。
 来るのが女の人だとわかると、彼はそれ以上の詮索をしなかった。午後にはちゃんと、自分の家に帰ってくれた。
 部屋を片付けた。もともと物が少なくて、小ざっぱりした部屋だったのに、彼氏がしょっちゅう来るようになってからは、どんどん乱雑になっていった。
 私は生活感の払拭にまい進した。ヨーコさんに生活感は似合わない。
彼氏の来る私の部屋は、生活感そのものだった。読み止しの漫画や雑誌が床とベッドの上に散らかっていて、机の上は大学の授業のレジュメで埋もれていた。使った食器は出しっぱなし、洗濯物は干しっぱなしだった。そういうものを、全て、所定の場所に収めた。
 彼氏が持ってきた漫画や雑誌は、全てビニール紐で縛った。縛って、捨てようと思ったけれど、なんとなく忍びなくて、ベランダの、部屋から見えないところに積み上げた。
 最後に花を買ってきて、テーブルの上に飾った。花瓶がないのでグラスに生けた。ヨーコさんに似合う色を、と思ってオレンジのガーベラと小ぶりの黄色いバラにした。それからカスミソウを少し。花を買うのは初めてで、やたらとどきどきした。

 私は化粧をして、ヨーコさんを待った。前の日、久しぶりに新しいアイシャドウを買った。ヨーコさんが好きそうで、私に似合いそうな色を選んだ。アイシャドウは私のまぶたに綺麗に馴染んだ。
 ヨーコさんは時間通りにやって来た。私の部屋の玄関が暗いせいかもしれない。おじゃまします、と言うヨーコさんの微笑みが、なんとなく儚く見えた。私は小さく唾を飲んだ。
 コーヒーのパッケージを見せると、アルパカだ、と言って、ヨーコさんは笑った。
 座ってていいよ、と言ったのに、ヨーコさんは私がキッチンでコーヒーを淹れている間、ずっと私の後ろに立っていた。後ろから、コーヒーを淹れる私の手元を珍しそうに除き込んでいた。
 並んで立つと、ヨーコさんのほうが私より小さい。今まで気づかずにいた。少し意外だった。
ヨーコさんに私のマグカップを渡した。私は彼氏のを使った。

 マグカップを持ちながら、二人で、部屋の真ん中の小さなテーブルに着いた。
「いい匂い」
 湯気の立つカップを両手で包み込み、ヨーコさんは目をつむって匂いを嗅いでいる。
「でも、熱いからまだ飲めない」
 ヨーコさんの目がぱちりと開いた。
 ヨーコさんと目が合った。初恋だ、と思った。
「あ、」
 ヨーコさんが小さな声を出した。私の目をじっと見つめている。ヨーコさんがマグカップを、コトリ、と置き、すっと私に近づいて来た。
 ヨーコさんの指先がそっと伸びて、私の頬に触れる。
「綺麗な色……」
 ヨーコさんの匂いがする。ヨーコさんの指先が暖かい。
「見せて」
 ヨーコさんは私の前髪を、撫でるように除けた。
 ヨーコさんの息が私にかかる。やわらかくて、甘い。
「ヨーコさん……」
 思わず、ヨーコさんの名前が漏れた。
「そのシャドウの色、似合ってる」
 そう言って、ヨーコさんは笑った。笑いながら、私の頬から手を離した。
 ヨーコさんの瞳は飴色だった。


「人との距離って、わからない」
 彼氏の話をした日、ヨーコさんが言っていた。
「あんまり遠いと、寂しいんだけど、近すぎると怖いの。近づくのも、近づかれるのも怖くて、拒絶してしまう。怖いくらいなら、寂しいままでいい」
 私も人との距離がわからない、とその時思った。
 私には、人との距離が測れない。距離を掴もうとしても、視界がぼんやりしてしまって、相手がどこにいるのかわからない。だから、近づくことも離れることも上手くできない。

 ヨーコさんへの気持ちが、はっきりと恋になって、私たちが深く繋がる日は、たぶん永遠に来ないのだろう。私たちには人との距離がわからないから。

時々お茶をするだけの関係は、続いている。

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