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[小説]今来むといひしばかりに長月の(文・月村麦)

 電話を切った後、姉さんは眉を下げ、それでも僅かに弾む声でごめんねと言った。
 彼、今から来るって言ってるの。
「いいよ」
 僕はソファから立ち上がり、財布と携帯だけを持って玄関に向かう。
「終わったら、電話して」

 適当なネットカフェに入り、紙コップのコーヒーを手に席に着いた。夜が明けきるまで粘ることになるだろう。たっぷりの氷で早くも薄まった苦味を、お酒みたいにちびちびと啜る。 

 姉さんの言う「彼」は、僕の高校時代の同級生でもある。今は実家から地元の大学に通い、程々に勉強もしながら、バイトとサークル活動に精を出している。休日には、高校から付き合っている彼女とデートをしたりもする。二ヶ月に一度、僕と姉さんの住む東京に足を伸ばす。姉さんは彼に彼女がいることを知っていながら、少しだけ可愛いパジャマに着替えて、夜にだけ訪れる彼を待つ。 

 浮気なんてありふれた出来事だ。姉さんがそれでいいのなら、僕がとやかく口を出すことではないのだろう。
 でも――でもね、姉さん、よく聞いてくれ。僕は知っている。近いうちに、彼が姉さんに別れを告げることを。一年と少しの姉さんとの関係に、いともあっさりと終止符を打とうとしていることを。彼が僕たちの部屋を訪れることはなくなるし、たぶん連絡だってこなくなるだろう。それは、彼が東京で新しいひとを見つけたからだ。「東京担当」が変わるのだ。ただ、それだけだ。姉さんには彼しか見えていなくても、彼にとっての姉さんは、東京での無料の宿に付随する疑似彼女に過ぎない。
 姉さん、彼が帰った後、鏡を見ることはあるかい? シーツの洗濯をして、掃除機をかけて、まるで彼の痕跡を消そうとするかのように働く姉さんの顔は、なんだかとても老いて疲れていて――僕は、そんな姉さんを見るのが、ひどく寂しい。

 着信音。夜みたいに暗い姉さんの声。「来なかったよ、結局」。そうか。彼はきっと、最後にお古と遊んでおくのも悪くないかと思っていたけど、東京に着いたら気が変わって新しい女のところへ行ったんだろう。もしかしたらそこから別れの電話がかかってきたのかもしれないね。
 今から帰るよ。コンビニしか開いていないような時間だけど、姉さんの好きな抹茶のアイスを買って帰るから。姉さんは泣いているかもしれないけれど、泣き止むまで待つから一緒に食べよう。
 姉さん、外を見てごらんよ。空が明るみ始めている。月が出ている。
 だめな男を見限るには、うってつけの朝じゃないか。

 今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな 

(文・月村麦)  

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