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そこらのものに宿る 記憶と希望|連載「足元」vol.1 季羽敏江さん

「銭にならんことぎりよ。でも、なんとか生きとるけんな。」
里山で暮らす知恵や生い立ちをたっぷりと聞かせてもらった後、敏江さんが朗らかに言う。
「ちっとも金持ちにはならなんだが、食うては行けた。難儀なことでも自分がやろう思ってやるんじゃけんの。誰ちゃやれとも言わん、やるなとも言わん。」

御祓(みそぎ)地区の人たちへのインタビューを行う連載「足元」の編集部が最初に訪ねたのは、カボチャ農家の敏江さん。80歳になっても「敏江さんは回遊魚」と地域のみんなから言われるほど、止まらずに動き続ける働き者だ。


動物と共にある暮らし

取材の冒頭、わたしらがキジを飼っていた頃は……となんとも興味深い話題が始まる。今でも内子町の近く・鬼北町ではキジが名産品として知られているが、昔は内子町の五十崎地区にもキジを育てている場所が7〜8ヶ所あったという。
春に雛を孵して育て、冬になると3000羽ものキジをお歳暮として出荷していた。朝早くに起きてバタバタと動くキジを捕まえて籠に入れ、工場に持っていく。ぴょぴょっと血抜きをしてスポーンと皮を剥いで、可哀想だの何の言うとったら仕事にならん、と言う敏江さんの軽快な語り口に思わず引き込まれる。

動物と近い暮らしを感じるこんなエピソードも。敏江さんが子供の頃には、近くで猪を飼っていた人がいたそう。
2時間おきにミルクを与え紐をつけて散歩をさせて、夜には自分の布団に入れて一緒に眠り、小田川の方に水浴びに行った時には子どもたちが凧揚げよりも面白がって猪に寄ってきたとか。背中に乗ったって怒りもせんのじゃけんかわいらしかったんよ、とまるで昨日のことのように生き生きと話してれる。


いつぞは使う、たくさんのものたち

敏江さんの家の周りには、5年に一度使うかどうかというものがいくつもある。いつかは使うだろうと思う理由は、親やおじいちゃんが3年か5年に一度ああして使っていたという映像が記憶に残っているからだという。
そんな敏江さんにかかれば、側溝の穴は鍬の曲がりを直すために大事な存在で、家の前のガードレールに括り付けてある四角いパイプはビニールハウスのパイプを伸ばして猪除けの柵に再利用するための道具。百姓から代替わりして息子や娘が御祓の外に勤めに行くようになるとそんなガラクタはいらんのや、というお話の後で、敏江さんの声が一際大きくなる。

「娘が言うんよ。お母さん、わたし定年になったらこっち帰ってきて農業やるかもしれん、そしたら道具は全部おくれや言うけん、やるやるやる、何もかも置いとってやる。そう言うのは嬉しいもんじゃわい。なんでも要るもん取っておいでよー言うて。」
敏江さんのおうちの周りに残されているものはきっと、誰かが使っていた記憶だけでなく、いつか自分以外の誰かが使うかもしれないという優しい希望をほんのりと宿している。


いろんな仕事の末に辿り着いた「一姓」

御祓で生まれ育った敏江さんだが、卓球の推薦で松山の高校に進学して全国大会に出場したことや、大阪に就職したこともある。御祓に戻ってきてからは実家の建設業の現場監督をしたり、タバコ作りをしたり、製材をしたりといろんな仕事を経験した。
昔は地元の材で家を作るため、大きな材は大黒柱用に大きく育てたという。「昔の人はな、なんでも自分とこで、自分内でまかのうてという。他所からこうて来てと言うんじゃなくて。」過去を反芻する敏江さんの言葉の端々から、本当の意味で豊かな暮らしのあり方を感じる。

百姓ではなく一姓だと自分のことを形容する敏江さんの元には、今年の春もカボチャの苗が500本届く。「80歳じゃけんな、みんなが『大概にしないよ、やりすぎたらいけん』言うけんど、いつが大概やら分からんのよ。去年もやったんじゃけん、今年もやれるじゃろ。」と笑う姿がなんとも頼もしい。

執筆・写真:浪江由唯
取材:水谷円香、わけみほ、オトンチ、浪江由唯
(2022年2月8日取材)


連載「足元」ーみそぎの暮らしごとー

「足元」では、愛媛県内子町・みそぎ地区の人たちへの取材を通して、土壌にある文化や歴史、自然の移ろいを記録します。
このメディアが、自分の足元を見つめるきっかけになれば。この土地の言葉から、確かに立つための何かが見つかれば。そう願います。


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