自分で見つけなきゃいけないのに生きる意味が見つからない
ついに、心療内科を受診することに決めた。
つまり、初診前のメモ書き・覚え書きみたいなnoteだ。
うっすらとしたしんどさを抱えて今に至るけれど、感情の波がついに底をつきそうになってきて、我慢ならなくなった。
現状
まず、今の心境について。
受診すると決めて、比較的すぐに予約が取れたことにより心の余裕が生まれたような気がする。
それでもしんどさが押し寄せてくることはあって、何かを考えながら所構わず泣きそうになってしまうことがある。青天の霹靂のようなこと、例えば晴れた空の下で車に乗っていて、その車が突然故障して玉突き事故に遭うだとか、そういうことを考えては吐きそうになる。
「死にたくない」「大切な人が…」みたいな感覚はあまりなく、自分にとっての基盤が揺らいでしまうことが怖い。
なんなら、スイスの安楽○カプセルのニュースが気になって仕方ない。「あー、最後に海外旅行してタヒぬか…」みたいなことも考える。そうするとたった今生きていることが訳わからなくなって、生きてちゃダメだと自分を責めるような方向に思考が巡ってしまう。かれこれ10数年、小学生の時から「タヒにたさ」と付き合っているがそのカプセルのニュースがとても魅力的に思えた。それまでもそのような幇助してくれる所はあったけど、最低でも500万はかかると聞いていたので、とりあえず500万貯めることが生きるモチベーションだった。それがたった数千円+旅費(片道)で済んでしまうだなんて。だとしたら今すぐにでも…と考える。それが正解で間違い無いと信じ込んでしまう。
「生きていても何もない」「生きる理由がない」「タヒんでも誰も困らない」といった考えも脳を占拠するようだ。
人の生きる意味なんて、その人自身が見出して、価値づけるものであるのに、そういったことを放棄して楽な方に流れようとしてしまう。
正直、パートナーがいないことも大きな要因であるが、精神的に参っているときにそういう相手を見つけようとして良いことはない。何より、精神的に不安定な人間が他者を巻き込んで良いとは思えない。
巻き込むと言えば、親ですら他者なのだから巻き込んではいけない、むしろ縁を切って、無関係な存在になった方が互いのためであるとも思う。
先日、親が突然「明日実家に帰る」と言い出した。そういうことは初めてではなく、祖父母の介護のようなもので、日帰りで帰ってくるという流れは理解できたのだが、そこで異常な想像力、被害妄想が湧き出てしまった。
例えば、
・道中で事故に遭って身動きが取れなくなったら自分はどうなるのだろうか→無一文になって身ぐるみ剥がされて追い出されるのではないか
・会社を休んだことで評価が悪くなり即刻クビになり、金銭的に困窮して明日食べるものに困ったり水道が止まって風呂に入れなくなるのではないか
・金銭的、身体的に困窮して自分が大学を辞めなければならないのではないか etc…
そういった被害妄想の末に、電話越しに癇癪を起こしてしまった。
被害妄想をしてしまう人は少なくないとは思う。全員に当てはまるかわからないが、その時の、ぐわぁぁぁぁぁっと迫り上がってくる感覚はなんとも言い難い。脳が蝕まれる感じというか、目の前がブラックアウトするような、「助けてくれぇ!」と叫びたくなるような感じ。言葉に起こすとうまく伝わるか微妙な感じだが、とにかく不幸で埋め尽くされていく。それを回避するためには「実家に帰る」を打ち消すか、自分自身を消してしまうかしかない。
癇癪を起こしている時にどんなに諭されても、脳がそれを処理できず、あるいは脳の上澄は理解しているけど中枢では文字が滑っていくために、癇癪を止めることができない。自分の中の被害妄想で伝えようと思っても、それは被害妄想だからこそ説得力がなく、コミュニケーションとして破綻してしまう。
散々言い合った後に、自分の中でも辛くなってしまって、「もう無理だから心療内科に行って不安とか感情の起伏を抑えるようにしたい」と打ち明けた。
それが今までの、23年間のしんどさを凝縮した、行き着いた先のカミングアウトだったとも思う。
不安を口にしたら「嘘ついてる」と一蹴されて片付けられてしまうのではと不安になった。でも今回に関しては、なんと言われようと自分の感情をコントロールできないのが辛すぎた。
幼少期
幼い頃から、何かとストレスフルな生活を送っていたかもしれないと思う。
でもまぁ、ストレスをうまくのりこえて成功したこともあるし、ストレスやプレッシャーも生きる上で必要だろうなとも思う。
3歳くらいの時、家に豚のおもちゃがやってきた。
覚えている人がいるだろうか、天井に貼り付けた紐にぶら下がった豚が飛んでるみたいに思いっきり回るおもちゃである。
初めて見た時からそれが怖くて怖くて、軽くパニックを起こしてすぐに片付けてもらった。回った勢いで落ちてきそうだと思ったのか、狂ったように回るその姿が怖かったのか、今になってはその詳細は不明だが、今でもあまり好きな光景じゃないなと思う。
同じ系統で言うとブランコも苦手だ。吊り下がっていると言う系統が全体的に無理。だけどターザンは好きだったりして、簡単には説明できないのだが…。
ちょっと、幼少期にまで遡るとキリがない。
キーワードとして、地震・心中・冗談、があげられるだろう。
地震というのは2011年のあの地震のこと。揺れ自体ではなく電力不足の方が根強くトラウマになっているような気がする。あの後に行ったディズニーランドの記憶は動悸でいっぱいだ。楽しいと思うたびに電気のことが気になって、集中できなかった。
心中というのは、貧困からくる心中事件の話で、自分の家でも…という恐怖心がある。正直今も。半ば冗談のように言っていた親のことは、この日から信用していない。
冗談は時に凶器だ。冗談がわからない、というほどではないのだけど、もし冗談じゃなかったら?と考えてまた被害妄想でいっぱいになる。
おやすみ
ちょっと眠くなってしまったのでこれくらいに。
3週間ほど前にはただの胃腸炎かと思っていたことがこんなに膨らんでしまった。
胃がしくしく痛い。
おやすみなさい。