聖徳太子の国家理念・い国から、わ国へ
とんでもない、お話を、します
倭、を〈わ〉と読む。絶対的真理として万人が信じています。
さて、岩波文庫の「魏志倭人伝・他」です。1951年初版、1985年新訂、私の手元にあるのが2009年通算第79刷。信頼すべき基礎テキストです。
編集解説、石原道博。
石原先生の解説より。
『後漢の許慎の『説文』によれば「人にしたがい、委の声、詩にいわく、周道倭遅」とあり、唐の陸徳明の『経典釈文』にも「倭もとまた委に作る」とあるから、倭・委あいつうじ「ゐ」と発音されたらしくおもわれる』
有名な金印の「漢委奴国」の委奴は、そのままイドと読むべきで、博多湾の西の糸島半島の旧地名、怡土(イド=よろこびのくに)である。
聖徳太子の和の思想により、和国と表記したのは、おそらく8世紀であり、倭を無理に和と同意としたのでしょう。
倭と矮を混同し、卑しい字だとする誤解があるが、倭は礼儀正しい人という意味であるようです。
頭のなかでは、倭=わ、という通念が凝り固まってますから、ゐ、と変換するのは大変なストレスです。
十数年前、亀井のことを、みんな平気で、亀の池、と呼んでいたのを訂正するのにすごいエネルギーを要しました。
亀井という言葉の歴史と価値を証明するのは大事業でした。
さて、倭はどう発音するのか。定説はないと、覚悟が必要です。
倭、の読み方は、わ、ではなく、い、ゐ、である。岩波文庫のこの解説、石原先生の説、なんで無視されているんだろう。岩波文庫ですよ。そこらのトンデモ文庫じゃないですよ。
🐢ちなみに
713年元明天皇は、風土記編纂を命じるとともに、各地名をよき字に改めよと勅命す。ヤマトは、倭から和、大和、と、聖徳太子のしめした最高の字があてられる。つまり、倭=和、ではない。
🐢ちなみに
江戸幕府最高の知識人、新井白石は、お、と読んでます。わ、は定説ではなかった。
🐢ちなみに
ヤマトタケル以前の初代タケル=英雄、はスサノオの子、イタケル、イの英雄、です。
日本国はいつから日本か
歴史に日本という国名が登場したのは、670年の遣唐使河内直鯨が予告し、702年の遣唐使の粟田朝臣真人が、唐に、国名を正式に日本と改めた、と報告してからです。
これを、唐の歴史を記録した二つの書物、旧唐書と新唐書が証言します。
旧唐書
日本国は倭国の別種なり、その国は日辺にあるがゆえに日本と名のる。倭国はその名前が雅ならざるゆえ日本となす。日本はもと小国、倭国の地を併せる。
新唐書
倭の名をにくみ、更めて日本となす。使者自ら言う、国日の出る処に近し、ゆえに名となす。
あるいは言う、日本はすなわち小国、倭の併せるところとなる。ゆえにその号をおかせり。
いずれにせよ、倭国と日本とは別の国であった。
旧唐書では、日本が倭国を併合した。と読めます。
新唐書では、倭国が日本を併合し、名前を横取りした。と読めます。
どうやら、日本は東にあった小国で、倭国と合併して、日本国が出来上がった。
東の国は、蝦夷の国でしょうか。日本は蝦夷の国であった、ようです。
聖徳太子信仰のあかしとしての国名変更
ヤマトを倭から和へと表記を変えたこと。
日出ル国として、対外的には、日本、と変えたこと。
いずれにも、聖徳太子信仰を国家理念と自覚した、と理解するのが、自然でしょう。
和の思想が、付和雷同を意味しないのは、十七条憲法を読めば、明らかです。
十七条憲法を通読すれば、これが抽象的な道徳ではなく、具体的な公務員の職務規範であることがわかります。つまり、現代憲法と同じ性格の、権力者への規範です。
憲法、は明治の外来翻訳語ではなく、七世紀の日本語なのです。
その冒頭の、和、をイに変えて国名に採用した。それは、文化史的には、大きな変革であったことになります。
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