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弥生、彼岸月です。四天王寺が最も賑わう時期ですが。covid19が心配。

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春彼岸は、四天王寺が一年で最も賑わう時です。彼岸の中日、つまり春分の日には、境内は広いといえど、駅のラッシュアワー状態になりました。

さすがに、神社の初詣ならともかく、先祖供養に大混雑は避けたいと、三月の普段の日に彼岸詣りをしようという方が増えてきました。そのほうが、亀井水の経木のお流しもゆっくりおがめます。

平安時代、極楽浄土信仰が盛んになるにつれ、四天王寺の西門の鳥居は、極楽浄土の東門なり、と語られるようになります。境内から拝めば、彼岸には鳥居のまんなかに夕陽が沈む。昔は海が近かったので、さらに美しい情景だったでしょう。

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四天王寺周辺の上町台地は、夕陽を礼拝し、極楽浄土を想いうかべる、じっそうかん、日想観の名所となりました。法然が日想観をおこなった庵が、いまの一心寺になります。四天王寺のすぐ近くで、四天王寺と同じ寺やと思いこんでいる方もおられます。

日想観は、観無量寿経、というお経に説かれた、イメージトレーニングの修行です。その入り口が、夕陽を礼拝することです。

観無量寿経の修行は、夕陽礼拝は序の口です。本格的な修行は、水観、から始まります。水を見なさい、と。清らかな水に、極楽浄土の風景を観想しなさい。

四天王寺では、お供養のしめくくりに必ず亀井水の経木のお流しをします。

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戦前の亀井水の混雑です。回りの地面がまだ低かったので、しゃくの長さもお年寄りでも扱えるものでした。参拝者が自分で、しゃくを使っています。戦後再建で、地面を高くし結界も高くした。亀井はより深く暗くなり、ますます亀の姿が見ずらくなりました。しゃくも長くなり、職員がやることになりました。私は十年やらしていただき、肩をこわしてしまいました。

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さて。

お彼岸は、日本だけの仏教行事です。その起源はよくわかっていません。

日本書紀、推古15年2月15日、推古天皇は、山川をまつり天地宇宙に礼拝する、季節のうつりの先祖供養のお祭りを、大々的におこないました。

グレゴリオ暦と対照すれば、この日は春分の日です。

私はこれが、彼岸のお詣りの起源だとおもいます。学者によっては、仏教信者の推古天皇が天神地祇をまつるはずがない、と言います。私は、蘇我vs物部の内乱は、権力闘争であり、宗教戦争ではなかったと考えます。四天王寺の創建と維持経営には、物部遺民が深くかかわり誇りとしてきました。

日本人の信仰と仏教は、違和感なく融合した。その古来の太陽のまつりが、お彼岸として、仏教にとりいれられたのでしょう。

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12世紀、仏尊雑記に記録された、中世の四天王寺本尊、救世観音様。如意輪観音様でもあると書かれています。

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