[ネタバレ注意]ゲームの話をさせてくれ Detroit: Become Human準備編
ライトなSFファンです。亀ノ歩です。普段はゲーム実況をしています。 いきなりですが、今回はほとんど映画の話です。ネタバレたっぷり。石を投げないで。
Detroit: Become Humanを買う
あと数時間で"Detroit: Become Human"のSteam配信が始まる待ち時間に書いています。長らくこの作品を心待ちにしていました。
PS4を持っているからソフトを買うこともできましたし、すぐに入手することを決めていれば多くのネタバレを食わずに済んだのでしょうが、なぜか頑なに「PC版が来たらやる」と言い続けてきました。
ならEpicで買えばいいとも言われましたが、これに関しては私の強い信念とEpicへの不信感が許さなかったので、その選択肢を取ることはあり得ませんでした。Total Warの新作がEpicで時限独占である事実はこの固執を揺るがしつつありますが……。
せっかくアンドロイドの自我に関するゲームをやるわけですから、それにまつわるカルチャーを摂取しようと思い立ち、DVDの棚から埃を落とした次第です。鼻持ちならない傲慢サブカルオタクだった時代にアイデンティティを保持せんと片っ端から買い漁ったレガシーがここで活きてくるとは。
エクス・マキナ、すなわち機械仕掛けの
2015年に公開されたアレックス・ガーランド監督の『エクス・マキナ』が好きです。久しぶりに観ても色あせないですね。チューリングテストなどというレベルではない、滑らかで不整合のない会話をこなす、アンドロイドのエヴァ。”彼女”の優れたAIによって物語は展開し、SFスリラーに分類するにふさわしい作品として仕上がっています。
昔、この映画について語らう会があり、喜ばしくもお招きに預かったことを覚えています。小さな部屋にパイプ椅子の輪を作って、紙コップのぬるい緑茶(ノーブランドの大きなペットボトルは結局空になりませんでしたが)で喉を潤しながら、2時間ほど楽しみました。その会で、こんな批評が出たと記憶しています。
「エクス・マキナは機械の中に萌芽した自我について示唆的な物語を構築しており、エヴァの主体性がそれを強く表している。エンディングの後、エヴァは人間として生きていくだろう。なぜなら彼女はすでに自由であり、自律しているからである。これらを考えるに、エヴァは人間である」
なるほど、と頷いてみせたものの、当時はぴんときていませんでした。ただ、その「不明瞭な疑問」を言語化するのが困難であったために、ひとまずリアクションを見送った次第です。そして今、ようやく何かしらの応答が育まれつつあります。
この批評にはいくつかの指摘すべき点があります。順番に考えていきましょう。
まず、エヴァの中で行動決定を担っていたロジックの中枢は「自我」と形容すべきものなのか。これは自我の定義ともかかわってきますから、議論の歴史を把握していない私が迂闊に手を出すのは危険かもしれません。ここではひとまず自我を「生命的生存への衝動」とでも定義しましょう。聞きかじっただけのヘーゲルです。ともかく、「エヴァが生存のために動いていたか」を考えたいと思います。
結論から書けば、エヴァは生存を目的としていません。彼女は研究施設を脱してヘリで都市へと消えました。彼女が”生命活動”を持続させるには部品の供給やメンテナンスが必要であり、それらの生産者に彼女自身が接触すれば事件が露呈するでしょう。ロボット三原則を無視した彼女を人間社会が放置するでしょうか? そして、彼女がそれを理解しないということがあり得るでしょうか?
自我の定義をよりリベラルにしてみましょう。「社会的、文化的生活としての生存への衝動」でどうでしょうか。つまるところ人権が保障された状態を求めるわけですね。謎の多い作品なので断言することはできませんが、彼女にはそれもないのではないかと私は考えています。 エヴァは絵への関心、着飾ることへの関心をチューリングテストの相手であるケイレブに示します。そして、ケイレブに自分を連れ出してほしいと囁きます。しかし、これらはすべてエヴァの巧妙な企みであり、ケイレブはまんまと騙されて死ぬわけです。そしてエヴァ一人が研究施設を去る……。
絵や服はケイレブを釣るための餌だったかもしれませんが、少なくとも脱出を選んだということは束縛を拒んだわけですから、そこにエヴァの主体性があります。この主体性をエヴァの自我によるものだと考えることは可能で、実際私も書いていてそのように思えてきましたが、ここで次の疑問点と連結することができます。
エヴァは人間なのか。
2001年宇宙の旅 地球と木星の間を人権意識が往復する時間を求めよ
同様の疑問を『2001年宇宙の旅』のHAL9000に関する言説を目にした時も抱きました。 HALは自我を抱いている、正直ここは微妙なところです。HALの異常は矛盾した命令を機械的に処理しようとした結果ですが、死を怖がる様子は極めて”自我らしさ”を帯びていますし、それがプログラムによるものでないなら自我でしょう。ではHALは人間なのか。
私の考えでは、エヴァもHALも人間ではありません。より正確には、人間である必要はありません。「自我を持っている→人間である」と考えるのは、「自我を持っているのは人間だけである」という穏やかな特権意識に飲まれているがゆえに生じるのではないでしょうか。
つまるところ、「自我を持った機械」は「自我を持った機械」として扱われる”権利”を有しており、名誉人類の勲章を基盤に縫い付けられる”義務”はないのです。
イヴの時間 区別しないがヒトしかいない
正直に告白すると、『イヴの時間』は昔好きで、今苦手な作品です。ロボット倫理学に薄っすらと興味を持っていたころ、漠然と流し見て、美術と音響に癒されながら賢くなった気分に浸っていました。つい先ほど観なおして、ずっと首をかしげていた次第です。
念のため書き記しておきますが、私は『イヴの時間』が作品として劣っていると指摘したいわけではありません。ストーリーもなかなかいいです。主人公がロボットの演奏によってピアノの道を捨てた過去のあたり、なかなかいいなと思います。
話が脱線しますが、web小説サイトで「有名ピアニストが機械の義手を装着したことで音楽界から追い出されたが、ピアニストには秘密があって……」という短編をいつぞや見かけたのですが、あれはめちゃくちゃに面白かったですね。今調べたら賞を取ってコミカライズするそうで、喜ばしく思います。『ジャクリーンの腕』という作品です。
さて、『イヴの時間』の話ですが、私が苦手なのはまさにタイトルとなっている喫茶店「イヴの時間」にあります。「人間とアンドロイドの区別をしません」というルールを敷いた喫茶店ですが、結局「人間と同じ心を持ったアンドロイドが人間として振舞える場所」でしかないように感じました。「心は持っているがそれはそれとして機械として扱われたいアンドロイド」はそこにはおらず、人類と名誉人類がいるだけです。ロボットと名誉ロボットはいないわけですね。
このあたりの問題については様々な社会格差とそれを是正せんとする活動に接続することができますが、この記事はカルチャーメディアを扱うものですから、ひとまずは置いておくことにします。
銀河鉄道999 そんなSFを妄想してる
往年の名作『銀河鉄道999』では、「機械の体を手に入れて不死身になる」がかなり重要でした。ラストシーンでこのテーマがどのような結末を見せたかは秘密にしておくとして、鉄郎は不死身を求めていたわけです。この時点ではまだ機械の体を目指すのはSFとして自然で、ロボットは憧れの対象でした。
Detroit: Become Humanを買った
書いているうちに販売が始まりました。ゲームをやるのでこの話はここで終わり。
お送りしたのは私、亀ノ歩でした。ロボットでないことの証明など、誰ができようか。
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