母の七回忌

本日で母が亡くなってから丸6年経ちました。
「まだ6年かあ」という思いと「もう6年かあ」という思いです。

これは私のメモ書きというか、忘れないように留めておこうと思ったので書きます。長文です。

母は難産で生まれ、そのときの後遺症で身体障害者になりました。
手足の麻痺と軽い言語障害です。
祖母は「私たち親に何かあっても、この子一人でも生きて行けるように」という思いで、母に厳しいリハビリをやらせていたそうです。
母は「小さい頃はリハビリが辛くて嫌なときもあったけど、今思うと、こうしてある程度は動けるんだから有り難いね」と話していました。

母はガンで余命を告げられたとき、真っ先に「抗がん剤治療が始まる前に遺影を撮りたい」と言いました。
「綺麗なときに良い顔で写真を撮りたい」と母に笑って言われたときは私と父のほうが泣いてしまいました。
母は本当に強い人です。

入院中も母は編み物や縫い物をしたり、「親しい人たちに会っておきたい」と言ったので母の古くからの友人たちに私が連絡をしてお見舞いに来てもらったりしていました。

母が亡くなる数日前、病院から「お母様の意識がありません」と連絡をもらいました。
父と二人で病院に駆けつけたとき、母は大部屋からナースセンターの隣の個室に移されていました。
先生からは「今夜が山でしょう」と言われ覚悟していたのですが、意識が戻らないまま母の心臓は持ち直し、普通の個室に移動になりました。

その日から、母の意識はなかったのですが、声にならない叫び声というか怒鳴り声のようなものを発するようになりました。
なんと言ってるのかは聴き取れないのですが、何かを叫んでいる。
先生に聞いたところ「ご本人にはもう意識はなくてもこういう声をあげることがあります」と説明されました。
多分、先生は『ご本人の意識はないから苦しくはないですよ』と私たちを気遣ってくれたのかもしれませんが、本人の自我があるのかないのかは誰にも判断できないことなので、私と父はそんな母の様子を側で見守ることしかできませんでした。
それが一番辛かったです。

いつ容態が急変するか分からなかったので、病院にお願いして私と父は母の病室で寝泊まりしていました。
いつも穏やかで朗らかな母からは聞いたことがない声で突然何か叫ぶ様子は、とてもいたたまれなかったです。
でも私も父も母の側から離れたいとは思いませんでした。
そんな母を独りにするのも辛かったのです。

母が亡くなる日の朝、夢をみました。
個室に移る前にいた大部屋でした。
窓側のベッドに意識がある母が横になっていました。
私は窓に背を向けて母の方に向かって座っていました。
明るく、穏やかな光が差し込む白い病室でお互い何も話さなかったのですが、ふと母が私の方に顔を向けて、何も言わずにニコッと微笑んでくれました。
前と同じ、優しい、私の大好きな母の笑顔でした。
私はそのとき漠然と『ああ。もういってしまうんだな』と思って目が覚めました。
私は夢の中ではありましたが、穏やかな母の姿を見れて安心した気分でした。

その日は特に母も叫ぶことなく静かに時間が過ぎていきました。
夜、母の部屋で晩御飯を食べるために私が近所のスーパーで私と父の二人分のお弁当を買って病室に帰ってきたときに母に「ただいま」と言ったら母が「うん」と答えてくれました。
たまたま唸るタイミングと重なったのかもしれませんが、私と父は「返事をしてくれたね(笑)」と笑いました。

そして夕食を食べて少し経ったときに、母の呼吸がおかしいことに気が付きました。
急いでナースコールで看護師さんを呼び、そこからはバタバタと呼吸を確認したり何かと慌ただしかったです。
そして、とうとう「呼吸をしていません……」と看護師さんから言われたときは、思っていたよりショックではありませんでした。
数日間、ずっと苦しそうな母を見ていたので「これで母もやっと痛みや苦しみから解放されたんだ」とホッとする気持ちのほうが強かったです。

そこからは人が亡くなったあとにしなければならない作業と手続きの連続でした。
看護師さんが言いにくそうに「亡くなった、という判断は医師にしかできないのですが、当直の医師が眼科しかいなくて…」と言われたときは父と「「眼科かあ……」」と言ってしまいました。
眼科の先生も一度も診たことがない患者の死亡宣告をするのは大変だな、と私は思ってました。

父と相談して、「祖父母や叔母家族と一緒に母を見送ろう」となったので家族が到着するまで死亡宣告は待ってもらいました。
祖父母も叔母家族もいつでも動けるようにしてくれていたので、深夜でしたが駆けつけてくれました。
家族に声をかけられ、見守られながら母が亡くなったことが確認されました。
そこからは看護師さんたちが「私たちでお母様にお化粧をしますが、メイク道具はありますか?」と聞かれ、普段メイクなんてまったくしない私がそんな道具を持ち歩いてるわけもなく、「ないです…」と伝えたら「ではこちらで用意したものを使ってもいいですか?」と聞かれたのでそれでお願いしました。
そして葬儀社をどこにするか、お通夜や告別式をやるのか、火葬場はどこか、費用はどれくらいか等々、どんどんと決めていきました。
人が亡くなったあとって選択→決定→実行の怒涛ラッシュなんですね。
悲しみに暮れる暇なんて一切ありませんでした。
それが却ってよかったかもしれません。

家族葬にして後からお焼香をあげに次々と家に人が来る方が大変だと思ったので、きちんとお葬式をあげることにしました。
母は交友関係が広い人でしたので、わかる範囲の人たちに連絡しました。

お葬式とお通夜には家族や親戚はもちろんですが、学生時代からの付き合いのボランティアの人たちや学校の恩師、友人知人、ママ友など100名近い方たちが参列してくださいました。
手前味噌ですが、これは母の人徳だと思います。

今でも印象深く覚えているのは、お葬式に来てくださったお坊さんが父と私に「早くに亡くなられた方は、それだけ早くこの世での修行を終えられた人たちです。『修行を終えたからこちらにおいで』と仏様たちがお呼びになるんですよ。それだけお母様が優秀な方だったということです」と言っていただいたときに、父と私の気持ちはだいぶ楽になりました。
そしてお坊さんが「優秀な人ほど早く呼ばれます。逆に、この世に留まっている人は何かやるべき使命のようなものがあって残っている人か、それかいつまで経っても修行が終えられない人ですねえ」と穏やかなお声で苦笑されたので、私も父も「確かにそういう人もいますね」と笑ってしまいました。
お坊さんも「思い当たる方がいるでしょう」と笑ってらっしゃいました。

あれから6年経ち、私も母親になりました。
親になって、改めて両親のすごさや有難みを噛みしめる日々です。
思い返してみれば、母は自分の都合やそのときの気分で私を叱ったことは一度もありませんでした。多分。
怒られたり叱られたりしたことはありましたが、どれもそうするだけの理由がありました。
私もそのときは母に対してムッとしたり喧嘩したりしましたが、今思うと母の怒りや叱ってくれた内容は納得することばかりです。
本当に母は強い。

今でも「母がいてくれたら」と思うこともありますが、いつでもそばにいてくれている感覚があるので多分常にいてくれているのだと思います。
でも、電動車椅子で買い物に行ったり、友人たちと旅行に行ったりとお出かけ好きな人だったので、きっと今も色んな所に遊びに行ってるんだろうなあ…とも思います。

母からもらったものはたくさん、たくさんあります。
私もそれを娘にあげられたらいいなあ、と思う日々です。

改めて。
お母さん、ありがとう。