見出し画像

小林秀雄「実朝」レビュー

小林秀雄の「実朝」初読は、中学3年生。『無常という事』という当時の自分にとっては思いっきり背伸びした格闘体験の一篇として出会い、太宰治と同じ歴史的人物への言及に、立ち位置の異なる2人が同じ人物を主題にするなんて、と驚きとともに興味津々で読み進めていたことが本当に懐かしい。授業中に読んでいたところを担任の先生に見咎められ、頭をコツンとされながら、解るのか、と問い質されたことを昨日のことのように思い出す。理解できてはいなかったんだろうな。それでも解ろうとムキになっていた。
その後,何度、この一篇を読み返して来ただろう。今回、様々な鎌倉時代関係本を読み重ねて名高いこの一論考を読み通してみて、あらためて小林秀雄の奥深さを体感し、足元にも及ばぬ自らの浅薄を思い知らされた。年譜によれば、小林秀雄が「実朝」を含む古典論を執筆したのは40歳の頃。今年66を過ぎ、自分の実年齢四半世紀分も堆積させているのに、小林秀雄のように、『源氏物語』の一節をさっと想起したり、関係論文を参照したりすることが、とてもできない。学究環境から、あまりに遠ざかってしまったな、と歎息するばかり。孔子に教えられた通り、老いやすく学なり難し。日々の営みや生業に追われてあることを言い訳にして一向に深化しない自分を甘やかしてはならない。小林秀雄が描いた実朝が抱えた懊悩とは、全く次元異なるけれど、憂愁の深さを重ねたことだった。やれやれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?