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漣の果てに。 第20話(了)


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澎湃たる波浪もいつしか収まり凪が来る。然あれども、爪痕はそこかしこに残り、あるいは日常を違うものにしていく。

「退屈」が再び俺の人生の主役を狙ってひやうと矢を放つも、俺は浮きぬ沈みぬ揺られける半透明の抜け殻。

何度かは会社に行った。もちろん、仕事は手につかない。父親が亡くなったということで、最初は同情もあったが、回復する様子を見せない俺に周囲は苛立ち、非難の目を向けるようになる。

「杉森さん、おかしくなっちゃったね」
そんな声も俺の身体を通過する。

しばらく会社を休むことになった。二週間の予定だったが、それが過ぎても家にいた。ネットを眺める。ゲームをする。たまにテレビでサッカーを見る。引きこもり。


笑うことが苦手な雫。それでも精一杯俺に微笑んでくれる。家事をこなし、料理はバラエティに富んでいる。ピアニストのように綺麗だった雫の指は水仕事で次第に荒れてきた。

ワイシャツには常にアイロンがかかり、毎朝、俺のお気に入りのスーツがクローゼットの前のフックに掛けられている。だが、それを着ることはいつまでもなかった。

結局、会社を三ヶ月休み、復職の目処が立たないということで、二月末で退職が決まった。社長が引きとめにきてくれたが、情熱が戻ることはなかった。

課長の根回しのおかげで、会社同意の上での自己都合退職という形になり、退職金の金額が積み増しされた。送別会の申し出もお断りし、9年間働いた会社にひっそりと別れを告げた。

寂しさ? 悲しさ? 空洞と化した俺の心に残滓はない。
残らないんだ、何も。

退職金はすぐに底をつくだろうし、家のローンも当然返せなくなる。
でも、先のことなど考えられない。
毎日から音も色も消えた。
感じないんだ、何も。


しかし──、季節は廻る。

70億分の1の時が止まろうとも地球は回り続け、沈めども沈めども日は昇ってくる。

黒澤一郎は民栄党を離党し、民栄党は政権を譲った。
アーセナルのオランダ代表は移籍し、日本代表の10番がマンチェスターユナイテッドに加わった。

庭では雫が所狭しと植えた菫が咲き、チューリップは蕾を出した。



桜の開花が間近に迫ったその日も、俺は虚ろにリビングの窓から外を眺めていた。太陽の高さなんかを確認して、もう昼か……なんて思っていると、軽やかなスリッパの音が近づいてくる。隣にストンと雫が座り、やにわに切り出した。

「圭司、ヨーロッパに行くよ」

印刷した行程表を食卓の上にバンと出す。
イギリス、イタリア、そして──ドイツ。
出発日は……翌日だった。15日間にも及ぶ旅行だ。

「圭司は何も心配することない。準備は全部してある」

いつの間に……。二階に上がると、既に大きなスーツケースが二つ。服も下着も既にパッキングが終わっている。

「楽しい旅行にしようね」
にこやかな声がガランとした俺の心にカランと響く。


成田から11時間。まずはイギリスに飛ぶ。
飛行機の中は眠れなかったが、隣に雫がいると思うと安心できた。映画を見るともなく3本眺め、時を追いやる。

ヒースローに到着し、ロンドン市内のホテルへ直行する。ロンドンの名所を回り、電車で数駅の古城へ足を運ぶ。プレミアリーグは日程が合わず見に行けなかったが、チェルシーのホームスタジアムを訪れ、ファンショップでユニフォームを買った。リバプールまで高速鉄道で向かい、ビートルズ博物館にも行った。雫は俺の手を引いて、どんどん俺が行きたそうなところへ連れて行ってくれる。

異国の情緒ある景色と雫の煌びやかな表情は、無色の俺に幽かな色を付けた。


5日目からはイタリア。ワインセラーを訪れ、美味しいワインを飲ませてもらい、ミラノで一番美味しいと言われるピザを食べた。雫がイタリアに短期留学をしていたときの友人から情報を得てくれたらしい。

次はここだよ。今度はこっちに行くよー。
圭司、圭司、圭司──。
たくさん、“俺の名前”を呼んでくれた。
ずっと俺をリードする雫。
疲れた表情は少しも見せない。

旅は楽しかった。何より雫とずっと一緒にいられることの幸せを噛み締めていた。でも、俺は笑えない。笑い方を忘れてしまったくるみ割り人形のようにただ顎が上下するだけだ。幸せを感じれば感じるほど、親父への罪悪感が高まっていく。幸せが俺を破滅へと誘う。


日本に帰ったら、死のう。
ギターの中に隠したヘックラー&コッホで脳を打ち抜いて死のう。

それで、すべて、終わりだ。


雫はなおも甲斐甲斐しい。この日行われるセリエAの試合のチケットをダフ屋から買おうとしている。日本人だから、女だからと甘く見られて、法外な値段で売りつけられることが関の山だ。

が、イタリア語を話せる雫は引き下がらない。ダフ屋もなかなかしぶとかったが、雫のウィンクで決まった。雫のあの吸い込まれる瞳でウィンクをすれば、大抵の男は落ちる。

顔の横でサムアップして、チケットをひらひらさせながら弾むように俺のほうに戻ってきた。

「圭司ー、買えたよー。定価とほとんど同じくらい。メインスタンドのすごくいい席みたい」

あぁ、こんな笑顔が出来るようになったんだ。
満面の笑みで俺の腕につかまる。決意は揺らぐ。

「ありがとう」

無自覚に声が零れた。


異様な雰囲気に包まれたスタジアム。発炎筒が焚かれ、ゴール裏はカオスだ。俺たちはメインスタンド中央少し左寄りの席に座る。斜め上には貴賓席。そこから見るフィールドは広く、繰り広げられる試合は新鮮で、魅力に満ちていた。
 

旅の最後は故郷、ドイツへ──。

初日は雫が行きたがっていたノイシュヴァンシュタイン城やメルヘン街道をレンタカーで巡り、最後の2日間は昔住んでいたデュッセルドルフで過ごす行程になっていた。

旅もあと3日。

雫、ありがとう。
でも、ごめんな。

デュッセルドルフでドイツ料理を夕飯に食べた後、一旦ホテルへ戻った。一人になりたくて、「ちょっと散歩に行ってくる」と出かける。

心配そうな顔で雫がこちらを見つめる。「大丈夫、すぐ帰ってくるよ」そう言って髪を撫でると、ふんわりと芳香が漂った。

市街地を少し離れたホテルに隣接した公園を歩く。親父と土曜日が来る度にサッカーをしにきた公園。灰皿を探して50分歩き回った公園。芝生はあの頃と変わらず、心地良さそうに広がっている。

思わず寝そべる。ふと、犬の糞があるか、と気になったが、気にしないことにする。春の風が吹きぬける。空を見上げた。満月だった。

──丸い。
今日の月は丸い。
メガネのレンズを通して見るドイツの月は、確かに丸かった。

寝そべったまま両手を広げる。
手が震える。まだ残っている、鉄の冷たい感触が。

草が月光で金一色に輝き、その上を風が漣のように渡ってゆく。広い海の上に揺蕩っている気がした。しかし、俺は風にはなれない。

草の波に揺られ、目を閉じる。夜が鳴っていた。



旅の14日目。明日、日本に帰る。
この日の行程表には一言しか書いてなかった。
「圭司の思い出めぐり」。

ありがとう、雫。
雫と結婚してよかった。

昔の我が家を訪ねた。別の人の暮らしがあった。
日本人学校へ行ってみた。知ってる先生は一人しかいなかった。
所属していたサッカークラブはまだあった。受付の人に昔、ここでやっていたと言ったら喜んでくれて、グラウンドの中で写真を撮らせてもらった。写真、見ることあるのかな。

昼飯はよく親父と一緒に行ったカフェバーで採ることにした。記憶を頼りに中心街から15分ほど歩いたところにあるバーへ赴く。思いの外、あっさりとたどり着き、営業中であることを確認してホッとする。ドア脇に紫色のハーデンベルギアが揺れていた。

カウベルが鳴り、アンティークな店内が広がる。夜はバーになるらしいが、昼間は、軽食と喫茶ができるようになっている。カウンター近くの席に座り、ハムとチーズを挟んだパンとシャンピニオンスープを注文した。

たぶん昔と変わっていないであろう髭面のマスターに「幼少の頃によく来たんだよ」と言ったら無言でサムアップをして、俺と雫の二人分ビールを注いでくれた。さらに自分の分も注ぎ、グラスを高く持ち上げる。

マスターはウィンクをし、初めて歯を見せた。乾杯。三つのグラスが重なり合い美しい鐘のような音を立てる。ホップが強く苦いが、美味しい。マスターの歓迎が嬉しかった。

店内を見渡す。昔よりも少し狭く感じた。朧げな映像と重なって懐かしい。
でも、昔とは明らかに違うところがあった。カウンターの奥の棚を埋め尽くす多種多様なグラス。マスターが自分の家のようにくつろいで欲しいという思いで導入したマイグラス制度らしい。底が厚いジョッキ。ベネチアングラス。いかにも手作りという感じのビールグラス。

「へぇ……お得意さんが、たくさんだね」

棚を右から左に眺めていく俺の目は一点で止まり、そこから動けなくなった。


まさか。なぜ。

個性的なマイグラスの中でもひときわ異彩を放つ存在。


白い陶器。
青でペイントされたまぬけな顔。






見覚えがありすぎる「へのへのもへじ」のマグカップ──。

俺は黄金の液体をゆっくりとテーブルに置く。ごとりと音が鳴った。
一度目を瞑り、緩慢なまでにゆっくりと開く。まぬけな顔と目が合った。


失われたシンバルが再び音を奏でる。


「……父さん、ここにいたんだね」
俺は雫にやっと微笑み、雫は首をかしげながら笑い返してくれる。


Fin.

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