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漣の果てに。 第4話

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土砂降りの雨の音──雨はキライだ。

理由の一つに「傘」がある。差してても濡れるんだもん、あれ。持ち歩くの邪魔だし。無数の目に見えない電波が飛び交い、地球の裏側とのリアルタイム通信も余裕。車は自動運転になる現代で、何これ。この傘という非現代的有形的存在。

何時代から使ってるんすか。欽明天皇の時代? それって万葉集より前ですよ。柿本人麻呂だって東の野にかぎろひを見た日の夕方とかに傘差していたかもしれないんですよ。進歩して下さいよ。発明してくださいよ。自動で部屋掃除するロボットとか、いいですから。

英国紳士は傘を差さないという。それでこそ紳士である。これは傘という無意味な産物に対する挑戦に違いない。いざ捨てんかな、人類よ紳士たれ。そして、人類のプライドに賭けて傘に代わる雨よけの道具を生み出したまえ。

英国人に最大限のリスペクトを払い、テレビでプレミアリーグの観戦をすることにする。楽しみにしていた、マンチェスターユナイテッド対アーセナルの好カードだ。

試合が始まった。しばらくこう着状態が続いていたが、最近植毛をして髪が増えたイングランド代表のゴールでホームのマンUが先制した。スタジアムの盛り上がりは最高潮だ。アウェイのアーセナルはパスをつなぎながら虎視眈々と隙をうかがっている。

レベルは高い。プレミアを見ていて思うのは観客がすげー楽しそうってこと。一人が応援歌を歌いだすと周りがそれに便乗し、スタジアム全体を包む。手拍子、身振り、あふれる笑顔。どこの席に座っていても臨場感満載。両軍22人の選手、ベンチ入りメンバー、監督、スタッフ、観客、貴賓席から見ている石油王……。この90分を共有している全員がその瞬間をエンジョイしている。

ゴール裏だけ盛り上がってその他の観客は陸上トラックの外側から眺めることが多い日本とは全然違う。なんだかな。Jリーグも好きだけど、一部の人のためだけの娯楽って感じ。俺は陸上トラックの外の観客席で腕を組んで眺めている人。それもメインスタンドじゃなくて、その反対側のバックスタンド。俺は俺の人生の主役だけど、周りの人から見たらただのエキストラ。

会社員A。ダークスーツにネクタイ。髪型はすっきりとした清潔感のあるスタイル。個性を出そうとあがいてみても、所詮会社員A’。あぁ、あこがれの脇役たち。永沢くん、頭は玉ねぎみたいだけど、君はすごかったんだね。いささか先生、些かしか出番はありませんが、あなたも立派です。ジャイ子、君みたいな存在感のある脇役は他の追随を許しません。

俺は彼らになれるか。今のままでは、無理。

後半なかば、アーセナルが同点に追いついた。オランダ代表の左足が炸裂。左サイド角度のないところから思い切り振り抜いた。スーパーゴールだ。アウェイ側の一部を除くスタジアム中が落胆する。テレビ画面からもその落胆が伝わってくる。

すげぇ。すげぇよ、プレミア。
スタジアムだけじゃなくて、テレビの向こう側まで巻き込んじゃうのかよ。
しかも、1万㎞離れた日本の会社員A’まで。

その後勝ち越しを狙ってマンUが猛攻をしかけるが、いつもはショボいアーセナルのキーパーがこの日は大当たり。シュートの雨あられをことごとくはじき出す。おぉ、毎度立ってるだけのエキストラに近い、へぼキーパーが名脇役に。人生分からん。妙に勇気をもらった。

試合は1対1引き分けのまま終了。いつもの試合とは違う余韻を感じた。時計の針は2355。良い子は熟睡している時間で、会社員A’はおやすみの準備をし始める時間だ。歯磨きをしようと大田区蒲田の1Kアパートの洗面所に向かう。しかし、その途中には目を背けたい現実があった。

狭い台所に夕飯の野菜炒めの調理道具が洗われずに佇んでいた。美味しく調理された余韻を楽しんでいるかのようだ。……そうか、お前たちもこのまま寝たいか。俺もこのまま寝たい。同じ気持ちだね。明日の朝にはきれいになって、そこの棚に戻っていてくれよ。そう声をかけて、そのままにする。明日の朝の絶望は、想像しないことにした。Tomorrow is another day. 明日は明日の風が吹く。

歯磨きを終え、ソファ代わりのベッドに腰かける。テレビでは先ほどの熱戦のリプレイが流れていた。マンUの監督が引き分けでは満足いかなかったのか、審判に猛抗議している。しかし、それは1万㎞先の出来事。90分のシンデレラタイムが終われば、もはや俺を巻き込む力はない。

そして、外の雨は続く。急激に眠気が襲ってきて横になる。明日のアポは何時だっけ? ぼんやりぼんやり。

──まどろみかけた秋の夕べ、唐突に電話が鳴った。
いや、前触れのある電話なんてないのだが。

やおらベッドから降り、テレビ横のFAX電話に手を伸ばす。今時、固定電話を引いている一人暮らしの若者は少ないが、これは俺のポリシー。受話器からは少し久しぶりの聞き慣れた声が。

「おう、圭司か。俺だ。達者にしてるか?」


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息子の声は冴えない。まともな返事さえない。ふん、とか、はん、とか、あぁ、とか、「お前は犬か」と突っ込みたくなるが、仕方ない。タイミング悪し。大方サッカーでも見てウトウトしていたのだろう。用件だけ、伝えることにする。

「母さんが死んでもうすぐ一年だ。近々、家で一周忌の段取りを一緒に考えようや」
 
うん、そうだね。そうしよう。犬から人間に進化した声を聞き、受話器を置く。母親のことになると、圭司は優しい。

洗面所に向かう。歯磨きスタンドにある唯一の歯ブラシを手に取る。鏡の中の天然パーマは大部分が白髪に覆われている。少し薄くなり始めたか…。どんなに酔っ払っても寝る前の歯磨きだけは欠かさない。歯医者に行ったことがないのが自慢だ。シャカシャカ。シャカシャカ。空しい音が二階建ての一軒家に響く。独りの寂しさはなかなかぬぐえない。

妻の小百合が亡くなって1年。愛実が孫を産んでしばらくして、ほとんど入れ替わりのように命を落とした。間質性肺炎──治療例の少ない難病だ。美空ひばりもこの病気でこの世を去った。

ある時期から咳が出るようになり、最初は風邪かと思って風邪薬を飲み続けた。それでも快方には向かわず、近くの総合病院へ。病名が分かったときには既に病状はかなり進行したものだった。漢方、最新の治療・手術をくり返したが、目に見える効果はなく、結果、心不全を引き起こした。

息を引き取る間際まで趣味のテニスを続け、コートを走り回っていた。小百合は運動神経がいい。何をやらせても器用にこなす。その中でも最も長く続けているのが、テニスだ。肺炎で運動をするなんて自殺行為だ、と医者にあきれながら言われたが、それでも止めなかった。生き生きとテニスについて語る妻の姿は微笑ましかったし、仲間にも恵まれていた。休みの日もテニスの試合に出かけ、平日も週に二、三回はテニスをしたり、テニス仲間と食事に行ったりしていた。

「まだまだ続けちゃうもんね」そう言って、永眠する半年前に昔から憧れていたラケット(princeのグラファイト)に買い替えた。しかし、病状は悪化の一途を辿り、その後は入院生活が続いた。

病室の壁にはいつも真新しいラケットが誇らしげに立てかけられていた。半身で起き上がりながら素振りをしたりもしていた。だが、グラファイトがボールを打つことは遂になかった。棺には真新しいラケットが一緒に入れられ、小百合は目を閉じたまま誇らしげにラケットを抱いて、煙となった。

横浜市の小高い丘の上にある我が家。高いところが好きなのは、学生時代にやっていた山岳部の性か、建築家の性か。坂の上は嫌だという家族の反対を押し切って居を構えた。高齢化が進む住宅地の中で、向かいのばあさんは先月亡くなった。晩年は痴呆症が進行し、挨拶をしても会釈が返ってくるだけだった。聡明で気の利く立派なばあさんも、過ぎ行く歳月と、孤独には勝てなかった。

歯磨きを終えて二階に上がる。夫婦の寝室。ベッドの横にある位牌に手を合わせながら自問する。──俺は孤独なのか。目を開ける。笑顔の小百合の写真がそこには、ある。

まだ、俺は孤独じゃない。

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