漣の果てに。 第19話
俺は見上げたまま目を閉じ、呼吸を整える。
汗が引き、唇の渇きを感じる。
「いい眺めだなぁ。ほら、圭司来てみろ。ドイツを思い出すじゃないか。ガスもほとんどないし、こんなに遠くまで見渡せることなんて滅多にないぞー」
空の何処からか、のんきな声が聞こえる。目を開き、首と顎の角度をやや鋭角に戻し、親父の方を向く。セミプロのお父様も肩が上下し、やや息が切れている。それもそのはず、かなり速いペースで登ってきた。
開けた頂上付近からの絶景と、絶好の天気にはしゃぐ親父。腕を広げて深呼吸なんかしている。今にもラジオ体操第一が始まりそうだ。動作を止め、やおら胸ポケットに手を入れたかと思うと、マルボロを取り出し、火をつけた。心底幸せそうな表情で、煙を高く高く吐き出す。
親父のほうへゆっくりと歩む。再び立ち止まり、そしてもう一度空を眺める。本当に嘘のような青さだ。
何も正しくない虚構にまみれた舞台のクライマックスとして、それは残念なほどに相応しい青さだった。
「父さん、煙草一本ちょうだい」
俺は口にしていた。
「えっ? おまえ吸うの?」
意外そうな表情をしながらも、箱の端をトントンと叩いて一本出し、俺のほうへ差し出す。
「吸わないけど、父さんがあまりに美味しそうに吸うから、吸いたくなった」
手に取り、咥える。
親父がジッポを取り出し、火をつけてくれる。
思いっきり吸い込んだ──むせた。ゲホッゲホッ
「はっはっはっ。大丈夫か? 慣れないことするからだ」
親父が笑う。顔中が皺くちゃになる。
父さん、父さん──。
その笑顔が見たかった。
俺は、少しだけ吸い、煙を吐き出す。
そして、足の裏で踏みつけて火を消す。
「ほら、使えよ。吸殻は捨てるな」
携帯用灰皿の口を開けて、俺の胸の辺りに差し延べる。俺が吸殻を入れたのを確認するとその灰皿を大事そうにしまう。そして、崖の方へ歩いていった。
慣れないニコチンのせいか頭がくらくらする。慣れないことはするもんじゃないな。慣れないことか……。今のこの状況ほど異常なものはないな。思いっきり笑い飛ばしたいほど、おかしな状況だ。
日々の退屈に揺られ、その波の平穏さを嘆いていたのはだれだったか。
あたりまえの毎日がどんなに安心だったか。
ありふれた毎日がどれだけ幸せだったか──。
崖の向こうに何が見える?
崖の下には何が?
再び眩暈が俺を支配する。
水面は沸き立ち、泡がはじける。煮沸された非日常の渦に巻き込まれた俺は、もう抜け出すことは出来ない。皮膚はただれ、思考は停止する。
俺は俺でなくなる。
俺は……誰?
「父さん……」
震える声で誰かが親父を呼んでいた。
その誰かはリュックサックから拳銃を抜き取り、その鉄の塊を両手で支え、両腕で胸の前に黄金比の二等辺三角形を作った。
頂点は親父を指している。
親父がいつもの二分の一の速度で振りかえり、目を丸くした。
「圭司……」
親父が俺を呼ぶ。
俺を、呼ぶ。
しばし困惑の顔を浮かべる親父。だがその目は垂直二等分線を引いたように確かに俺を見ていた。
やがて目を瞑りゆっくりと二、三度首を縦に振る──聡明な親父は一瞬ですべてを悟ったようだった。
風はそれほどなく、百舌のさえずりが遠くで聞こえる。
銃を突き出す俺に、眼鏡越しでこれ以上ないくらい優しい目をして親父が話しかけてくれた。
「黒さんか……。やれやれ、どこまでも腹の底が見えない人だ。俺に『下りる』ことを許さないわけだ。……その引き金を引くことはお前の幸せを招くんだな。……なら、撃て。遠慮はいらない」
親父の優しい目と声。
いつだったか。
お袋が友だちと旅行に出かけていて、親父と俺が留守番をしていた時、俺が風邪で高熱を出したことがあった。看病なんかしたことない親父はひどく狼狽していた。
昼時に「圭司、昼飯買って来たぞ」と言って俺を起こしてくれた親父の声は優しく、そして目は心底心配しているようだった。
実際買ってきたのは、ビッグマックセットで「風邪の時にこんなもん、食えるか!」と卓袱台返しをしたくなったものだったが、親父の優しさを無碍にするわけにはいかず、食べた。
何か、美味かった。
その後、不思議と快方に向かい、お袋が帰ってくるころには一緒に野球中継を見ていた。
あの時の目と今の親父の目が重なる。
親父に照準を合わせるが、ぶれる。
手は震え、視界がぼやける。
最近、正面から親父を見ることなんてあまりなかった。
父さん……。
あぁ、白髪が目立つな。髪も薄くなった。
腹回りもずいぶん立派になったな。白いズボンを履けていたのは遠い昔か。
眼鏡のレンズも厚くなった。
顔に皺が増えた。少し背中が丸くなったか?
皮膚も何だか元気がないな。
独り暮らしで苦労かけて、すまない。
父さん……。
俺、父さんが誇れる息子になれたかな。
……目の前で銃を向けている息子を誇れるはずなんてないか。
ごめんね、父さん。ダメな息子で、ごめんなさい。
撃つ。
撃たなきゃ。
さよなら、父さん。
さよなら、サヨナラ。
親父が目を瞑り、手を広げる。大きく、大きく。
幼児のようにその腕の中に飛び込んで甘えたかった。
父さん──。
さよなら。
引き金を引く。
…………
あまりにも確かな、そして実に空虚な手ごたえ。
同時に俺は目を瞑っていた。
銃声はこだませず、俺の心の中には誰かのさよならがいつまでもエコーしていた。
その四文字の言葉は親父に向けられたものかもしれないし、天国の母親に告げたものかもしれないし、雫に語りかけたものかもしれなかった。さらに言えば、今その瞬間までそこにいた自分自身への挨拶のようにも思えた。
時空が歪む。
意識の彼方から瞼をノックする音が聞こえ、グッと力を込めると幕が上がった。
──目の前に、親父は、いない。
よろめいて崖下に転落したか。
崖を覗き込む。すぐ下から木々が生い茂り何も見えない。脚が震える。親父の行く末を確認したかったが、長くは見ていられなかった。銃弾があたったかどうか分からないが、どのみちこの高さから落下したら助かることはない。
立ち上っていたのは銃の硝煙か、親父の煙草の名残か。
親父が吸っていた煙草の吸殻はどこにも見当たらなかった。
俺はルビコン川を渡った。
山を下りる。親父がいない帰り道。俺は独りで下れるのか。途中で3人の人影とすれ違う。日が傾き始めた山は暗く、顔は見えない。思わず目を伏せる。山のルールを守っている場合ではない。向こうも挨拶をしてこなかった。
行きに親父が教えてくれたマツムシソウの花が見当たらない。
行きに親父が手を貸してくれて越えた段差はどこだったか。
行きに親父が汗を拭くために貸してくれたタオルは……まだ俺が持っていた。カバンに手を伸ばすと簡単に見つかった。もう返せないじゃないか!
もっと話せばよかった。
もっと笑えばよかった。
もっと背中を見ていたかった。
もっと、もっと──。
数多の後悔と共に俺は転がり落ちるように下る。方向感なんてない。生きている心地もしない。
気がつくと腕が震えていた。
気がつくと「父さん」と叫んでいた。
気がつくと頬はぐっしょりと濡れていた。
四時間後、麓に辿り着き警察に言う。
父とはぐれてしまった、と。
どんなに探しても見つからない、と。
すぐに神奈川県警が動き、捜索活動が始まった。
俺は警察に保護され、夜11時を回ったところで雫が駆けつけた。憔悴しきった俺の顔を見て一瞬ぎょっとした表情を見せるが、何も言わずにそばにいてくれた。
捜索活動は日付を跨いだところで一度止まり、翌日早朝から再開された。
夕方ようやく沢で発見される。頂上付近の崖から転落したようだと、警察から連絡が入る。ニュースでも速報が流れた。
「昨日から行方不明となっていた63歳の杉森直志さんが本日夕方、丹沢山の上流の沢で遺体で発見されました。服装から杉森さんと推定。杉森さんは小森建設の役員で……」
すぐに現場に駆けつけ、ブルーのシートが掛けられた遺体を前にする。顔は転落の傷で見分けはつかなかった。わずかに確認できた白髪交じりの天然パーマは親父の頭のような気もするし、そうでないような気もする。
思わず目を背ける。人の形だった「何か」にしか見えなかった。着ていたのは、俺と雫が去年の誕生日にあげたモンクレールのダウンベスト(の残骸)で、晩秋から冬にかけてはいつも着てくれていたものだった。
それを着ているのはつい一日前まで一緒にいた親父に間違いないのだが、警察に聞かれたときは「おそらく父です」と言うしかなかった。それくらい服も身体もずたずただった。
遺体は解剖に回されたが、すぐに結果は出たようで葬儀の準備が始まった。小森建設の社長が色々と動いてくれたこともあり、数日後に葬儀はしめやかに執り行われた。参列者も多く、親父の人望を感じさせた。
俺は喪主だったが、葬儀屋に促されるままにあやつり人形のごとく動き、挨拶も通り一遍のことを述べた。火葬場に運ばれ、滞りなく親父らしき遺体は焼かれた。黒澤一郎も神妙な顔をして、勿論そこに御座った。
家財の整理に実家に向かう。若干、誰かに荒らされた跡があった。警察から連絡が入り、親父の死とともにセコムは解除されていた。家はお世辞にもきれいとは言えず、物が散乱していたが、捜索の際に押し入った警察の仕業かもしれなかった。
何かがなくなっているような気もしたが、持ち主がいないわけだから、何がなくなっているのかも分からない。権利書の類や通帳やハンコ類。家族の思い出の各地の名産品。最後にお袋の位牌を運び出す。あとのことは姉貴とも相談が必要だった。長居せずに、実家を後にする。
親父の死因は転落の際の全身強打による肺座滅。
歯形から親父と断定できたとのことだった。
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