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漣の果てに。 第17話


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朝は来る。
七十億分の一の男が苦悩を抱えていたとしても、違わず朝はやって来る。

神奈川の屋根、丹沢山。
一ヶ月前親父に山登りを提案したら、丹沢山を指定してきた。何でもこの山は俺と登るために、今まで一度も登らずに残しておいたらしい。

親父との待ち合わせは朝6時20分。人影も見当たらない始発直後の日吉駅から小田急線渋沢駅まで向かう。早朝の渋沢駅前は人影もほとんどなく、ロータリーは閑散としている。

随分さびしげな駅だな……と思い、左を向くとモンクレールのダウンベストを誇らしげに着た親父が、うずうずした様子で煙草を燻らしていた。俺の姿を認めると無邪気な笑顔で右手を挙げて近づいて来た。

丹沢山を日帰りするのはなかなかに困難だということだが、親父は「俺はセミプロだぞ」と言って憚らない。十分後に出発する神奈川中央交通のバスに乗り込み丹沢山を目指す。目の前に置いたパタゴニアのリュックサックは不気味な存在感でそこに御座る。

雫には親父は病気だと、あまり永くはない病気だと伝えた。それを聞いた雫は俺を精一杯励ましてくれたが、その優しさがまた辛さを助長する。最期に親父の望みを叶えてあげたいから元気なうちに一緒に山に登ると説明をして、この日を迎えている。

初秋の空は青く晴れ渡り、空気は澄んで少し肌寒い。

「山は下りるために登るものだ」
山岳部の親父は常々言っていた。

「登ることを目的にしたら頂上で満足してしまう。達成感と余韻を胸に秘めて、下りる。それが一番大切だ。人生も現役や表舞台を去ってからが醍醐味なのかもしれない。ま、分からないけどな」

出世街道を登り続けている親父が言うと説得力には欠けるが、頂点を目指して絶えず登っているからこそ許されるセリフだった。

親父と共にルート確認をし、登頂を始める。絶望は下や底にあるものだと思っていたが、天に程近いこの山の頂上にある。山の初心者の俺を親父がリードする。時に手を貸してくれ、時に植物や動物の解説をしてくれる。俺の前に聳える背中は大きかった。

親父、頼りになるな。
さすがだよ、父さん。
いつまで経っても、何歳になっても俺は父さんを越えられない気がする。

俺はその背中に声にならない思いをぶつける。

風で葉がこすれる。
森は何を囁く?

親殺し──。オイディプスは歪んだ愛と憎悪から父親を殺す。俺の愛は歪んでいるのか。憎悪? 俺は父さんを憎んでなんかいない。これっぽっちも。

森はゴッホの絵のようにうねりざわめき、親父の背中は遠くなる。

『神がいるならば、どうして悪が生き残り善が死ぬのか』
『神がいないならすべては許される』

俺は宗教の不毛さを痛感する。
キリストは偉大じゃなかったのかよ……。

何を信じればいい? 何に縋ればいい?
やっぱり神様、お願い。
Oh, Jesus…

天は見えない。幾重にも織られた枝葉が俺の願いを妨げる。

胸の前で十字を切り、二礼二拍手、南無阿弥陀仏。お遍路さんだって、一日5回の礼拝をやったっていい。

それで、何か変わりますか? 

何も変わらない。変わるはずがない。
そんな都合よく使われたら、祈られたら、神様も仏様も迷惑千万だ。

そうか、だから人は祈るんだな。
毎年、
毎週、
毎日──。

それが願いを叶える条件なのか。

神様、今まですみませんでした。
だから、だから──。

足元には大木の根が隆起し、俺と親父の進行を妨げる。転ぶと体力を消耗するため足下には注意を払う。が、ペースは緩めない。このペースを保たないと日帰りがきついらしい。親父は「下りる」のを楽しみにしている。

親父を救ってくれなんて言わない。親父が容疑者になったって構わない。でも、何とか生かしてやってくれないかな。

祈り、願い、拝む。
頼む、誰か──。

無力な俺はそれでも天に向かって想いを放り投げる。
それしか、それしか出来ないから。
ダメかな? 無理なのかな、カミサマ。
親父を生かしてやってくれよ。

休憩を挟みながら山道をひた登る。秋風は心地よく、迸るマイナスイオンは俺の心をわずかに和ませる。登山者は入り口付近で数人見かけただけで、人の気配は全くといっていいほどない。時折挟まれる親父の解説と気遣いの言葉以外はほとんど無音のまま時は過ぎる。

俺と親父はゴールではない「終わり」に向かって歩を進める。俺の気持ちはお構いなしに太陽は高度を上げていく。

木漏れ日は力強さを増し、微かな光を森に届けてくれる。

厚みのある緑。大いなる幹に生を受けた葉は緑に輝き、時とともに色を変え、やがて死にゆく。翌春芽吹く葉は果たして次の世代なのか、去年の葉の蘇生なのか、それとも輪廻転生なのか。

緑の生命は枯れども涸れども搏動を続ける。

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