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漣の果てに。 第1話

平穏な水面は一つの滴でざわめく。──波紋。
揺れる。わずかに揺れる。
それは不規則に、静かに、さざなみのように。

まぁるいまぁるいまんまるい。盆のような月が。

親父の音痴な歌声がよみがえる。水たまりを避けるようにして歩いていた俺は、少しだけ顔を上げる。子ども心にも思ったものだ。うちの親父の歌はひどい、と。それでも親父は上機嫌で歌い、そして続けた。

「圭司、見てみろ。今日の月はまるいだろ。三日後の月は丸くない。そして、ドイツで見える月の形と、日本で見える月の形は違う。でもな、いつだって月そのものは丸い」
 
頭の上から降ってきた親父の言葉。よくわからなかった。一緒に見上げた月は、親父の煙草の煙でおぼろげだった。
「今日だって丸くないじゃん」そう思った。

しかし、丸い。今日の月は丸い。メガネのレンズを通して見る月は、確かに丸かった。

寝そべったまま両手を広げる。
手が震える。まだ残っている、鉄の冷たい感触が。
草が月光で金一色に輝き、その上を風が漣のように渡ってゆく。広い海の上に揺蕩っている気がした。しかし、俺は風にはなれない。

草の波に揺られ、目を閉じる。夜が鳴っていた。

あの日あの場所で起きたこと。俺の運命。   

銀座四丁目の交差点。行き交う人々、無秩序な運動、定まらぬゴール。しかし、日本人ほど秩序を守る国民は世界を見渡してもいない。「右にならえ」こそ美徳であり、分類されて安心する。ラーメン屋には律儀に行列を作り、割り込みは皆無。ニホンジンイイヒトネ。

今日も人々は齷齪と歩き続ける。決められた、はみ出すことのできない枠の中を蠢いている。そう、岩屋の中の山椒魚の如く。

俺はめまいがした。

あふれ出す光の洪水。月が申し訳なさそうに、仄かに微かに光っていた。

常に走り続ける仕事。ゴールのない日々に俺は少々疲れていた。寝不足ではないのに、目には隈ができ倦怠感が抜けない。舌打ちと、ため息と、「疲れた」をローテーションで口にしながら、流れ流されていく現代の流浪人。

十一月の月曜日。銀座に本社がある某大手電機メーカーの営業。給与待遇に不満はないし、周囲からの評判もいい。ただ、日々の仕事に追われ、自分を見失って久しい。灰色の仮面。俺は俺なのか。

大学の時から付き合っていた彼女は自らの道を歩み始めた。二十歳の時に、お互いに夢を追いかけているところに惹かれて付き合った。俺は先生になりたかった。そして、サラリーマンになった。彼女は司法書士を目指していた。そして、OLになった。

が、彼女は半年で辞めていた。司法書士になるための勉強を本格的に始めたらしい。

二ヶ月前の残暑厳しいある日の残業中、突然、会社の前まで来た彼女に呼び出された。彼女は、パーカーにジーンズという、銀座の町にあまりに不似合いな格好で、街路樹の下に立っていた。俺は笑顔を作りながら片手を挙げ、小走りで近寄る。彼女は俺の顔を見るなり、無表情のまま唐突に切り出した。

「ねぇ圭司。ちょっと勉強に集中したいから、しばらく連絡をとるのやめない?」

「…やめない」そう言いたかったが、それを言ったら女々しい。

突然の告白に動揺したが、動揺は見せない。プライドを優先した。理解あるカッコいい自分を優先した。

「うん。分かった。頑張れよ」

その一言が別れの言葉となった。終了。彼女と共に過ごした四年半の歳月は簡単に終わりを迎えた。それ以来、一度も会ってもいないし、連絡もとっていない。今頃は他の男と…いや、そんなことは気にしていない。もう未練なんてない、と自分に言い聞かせてみる。

大げさな呼吸とも、ため息ともつかない吐息が歯の隙間から漏れ出る。ノスタルジーに浸って冬の灰色の街を眺めるが、昼間の銀座には色がなく、俺の気分はさらに落ち込む。テンションが上がりそうな色を着ている、キレイなお姉さんを探せ、と自分にミッションを与える。「よし」と腕まくりをするくらいやる気になり、窓の外へ視線を送ったが、一瞬で妨げられる。

「杉森さーん、ソフト情報システムの重松さんから電話、二番でーす」
広くはないオフィスに響き渡る、事務職五十歳独身女性の黄土色の声。嫌な色を発見し、気分を害した俺は、返事もせずに電話の受話器を上げて、二番のボタンを押す。

「はい、杉森です。えぇ、えぇ。あーその件ですか。えぇ、えぇ。またぁー重松さん、そこはお願いしますよー」
客の扱いは苦手ではない。基本的に人と話すのは好きだし、営業職は出会いも多い。ただ、仕事が単調なのがいただけない。何か面白いことがしたい。その欲求は日に日に高まるばかりだ。電話を切った。

同じ課の後輩が昨日の営業報告をしてくる。冴えない声、覇気無き顔、それでは営業もうまくはいかないよ、内村君、と思いながら、上の空で生返事。後輩は、義務を果たしたという顔をして自分の机に戻った。そして、俺はお決まりのローテーションへ。チッ、はぁー、疲れた。

机の上に佇む「へのへのもへじ」がペイントされたマグカップは、不機嫌そのものである。


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