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あるあるネタと謎かけ(3月9日)

オモコロブロスのPR記事が公開されました。仕事のフリしてるけどこの人ら就業時間中に楽しくアニメを鑑賞しただけじゃないか?

この記事のように、知ってる人の解説をききながら一緒に作品を鑑賞するのってかなり贅沢な環境だと思う。人によっては「隣でうんちく語られてウザい」になりそうだけど、その作品の楽しみ方をダイジェストで教えてくれる人は貴重だ。

ちなみに、この企画にはギャラクシーさんが参加している。47歳になるおじさんがイキイキとオタク談義してる様子は見てて嬉しくなってくるね。ギャラクシーさんは社内でも最高齢なので年齢を軸にイジられたりもするが、実際47歳にしてはすげー若々しいと思う。

体型もスリムだし、ひと回り以上も若い僕でも全く気負いなく話しかけられる。自分たちが47歳になった時にギャラクシーさんの凄さがわかるんだろうな。俺40越えてキリトになりきれる気がしないもん。


ラブコメ漫画のあるあるネタを言い合う要員としてオモコロ記事に参加しました。ラブコメ漫画あるあるの1ページ目に「両親は海外出張で不在がち」があるけど、今はそうじゃないよな…と常々思っていたのでそれが共有できてよかった。

個人的に「間接キスを意識した時、ヒロインの唇の書き込み量増えがち」が一番好き。あと、おまけ画像にある「恋人同士のフリをする回でお互いをダーリン・ハニーと呼びがち」とかも気持ちいい。


あるあるネタは共感性の面白みがあって、みんなで「あるある〜!」と言い合ってキャッキャするのが楽しいんだけど、確度の高いネタになると「言語化」の面白みも感じられてより楽しい。

ユーモアについて一家言ある人は、あるあるネタに代表される「共感性の笑い」を軽視して「破綻」ばかりを重宝する傾向にあるけど、確度の高いあるあるネタは共感性だけでなくもっと鋭いユーモアを持っていると思う。今まで意識していなかったのに急にその存在に気付かされる瞬間。あれがあるあるネタの旨みだ。

なんだっけな。昔読んだものの本で人が面白みを覚えるメカニズムには快/不快の両面がある〜みたいな研究があった気がする。感情と感覚と認知の3種類にそれぞれ快/不快があって、例えば赤ちゃんの例で言うと、親の腕の中で優しく揺られて微笑むのはそこに「感覚の快」が生じているからであり、逆に「たかいたかい」などの危険な遊びを大喜びで楽しむのはそこに「感覚の不快」が生じているからである…みたいな感じ。その書籍では「イリンクス的笑い」と定義づけられていた(イリンクスはジェットコースターとかで感じる目眩とか落下感とかのことらしい)。

不快→面白いに至る説明については忘れちゃったけど、要は面白さを覚える過程には「不快」もポジティブに作用するんだそうで、それが印象的だったので今でも覚えている。

ちなみに大人が楽しむユーモアは主に認知の面で構成されているそうで、ギャップとか裏切りとかそういった類のものは「認知の不快」に当たるらしい(この辺りの分野では、認知的不協和と定義づけられている)。「認知の快」は各事象がキレイに結実する様に対して覚えるとかで、言葉遊びとかジョークとか主にウィットに富むユーモアの主成分であると説明されていた。

「謎かけ」を例にとって説明をすると、「お坊さんとかけまして、新聞の朝刊ととく」だけでは全く無関係のものが並んでいるようにしか思えずそこに面白みも感じることができないが、「その心は、今朝来て今日読む(=袈裟着て経詠む)」と聞くと、途端に二者間に共通点を見出すことができる。それまでの「?」が氷解することで「認知の快」が生じるため、人は面白みを感じるのだとか。

こういった類の研究結果は実証の難しいものが多く、我々素人は話半分に聞くに限るが、よもやま話としては面白いと思う。桂枝雀の「サゲの四分類」でも似たようなプロセスで落語を分解していたりするので、有識者の間ではスタンダードな考え方なのかもしれない。


これに倣って考えると、あるあるネタは認知の快を楽しむユーモアにあたる。確度の高いあるあるネタは「あるある〜!」とキャッキャする共感遊びを越えて、今まで意識していなかった事象が言語化される気持ち良さがある。それまで未分化だったモヤモヤが一言で可視化される感覚を思えば、「あるあるネタ」は「謎かけ」に近い構造を持つといえる。

体感的には例えツッコミも同族だと思う。「●●じゃないんだから」「●●みたいだな」などの一言で(あぁ〜確かに。上手いこと言うな)という点に向かって対象の見え方が収束する感覚は、例えツッコミの主成分だ。むしろ、最近は例えツッコミの方が「言語化」の面白みを担っていて、あるあるネタは共感性を刺激し合う遊戯に特化している気がする。

以前、「コンビニあるある」で「店員からお釣りを乱暴に渡されてイラッとする」みたいなものが挙げられたりしていて「それはあるあるじゃなくて事実なのでは?」とか思ったりもしたが、それだけ棲み分けが進んでいるということだろう。あるあるネタに確度の高さを求める必要はもうないのかもしれない。


私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐になって来た。
これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待されるのに、その峠を定規通り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。

これは夏目漱石「こころ」の一節で、上京していた主人公が帰省した場面の描写だ。僕はこれを上等なあるあるネタだと思っている。違うかな? 夏目漱石ってあるある芸人じゃないんだっけ? エンタ出てなかった?

これを読んだのは学生の頃で、まだ実家住まいで『夏休みなどに国へ帰る誰でもが』には該当しないくせに、僕はなぜか「あるある!」と思ってしまった。ないのにあると思ったのだから相当に確度が高いと言える。

芸人さんのネタでもあるあるネタはよく見かけたが、この文章からは、実家にいるときの居心地の悪さが「無意識層」から「意識層」に掘り起こされる動きを確かに感じ「気持ちぃ〜〜〜〜!!!」となった。僕があるあるネタを好きになった起点でもある。

気のせいかもしれないけど、あるあるネタって軽んじられがちじゃないですか。でもな〜。本当はもっとすごいものだと思うんですよ。それも気のせいかもしれないけどさ。

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