「答えのない問い」について

 今日は答えのない問いについてお話しようと思います。

 この言葉はわたしが自分のマガジンに設定した言葉です。普段から当たり前にこのようなことを考えているので何も違和感なく使っていましたが、改めて読んでみるとちょっとかっこよすぎるかな? という気もしてきました。こういうタイトルでエッセイ本とか出せそうですよね。というかもうありそうですね。

 答えのない問いを普段から考えているとはどういうことかというと、研究や学問における問いとは、ほとんどが答えのないものだからです。わたしは自己紹介文にもあるように、以前大学院生として研究の領域に関わりながら研究者を目指していました。研究をやめるというより研究機関を辞める、大学の外に出るという道を選び、今は会社員をしています。そのためか院生であった当時からいまだに答えのない問いについて考えています。正確に言えば、問いについて考えるというより、問いが浮かんでくるというのでしょうか。

 問いをもつということはとても重要です。研究とかそういうこととは別にして、人が生きていくということにおいて無くなってはいけないものだと思います。答えのない問いを問うことができる権利、問うことができる自由というのは何より大事なものなのです。

 なぜでしょうか。それも答えのない問いですが、わたしの答えの一つをここで示すとすれば……。そうですね、自分の考えを持つことができるから、でしょうか。

 どういうこと? そうですよね(笑)。本当にわたしの書いていることは分かりづらい。ただ大事なことはあんまり平易な、一般的な言葉で書きたくないというのが本音なのです。こうやって他の人に伝わりにくい文章で満足してしまうのも研究者の悪いところです。

 自分の考えを持つとは……。もっと一般化すれば「わたしはこれが好きだ」という考えを持つことができると言い換えられるかもしれません。流行のこれは好きだけどこれはなぜだかあんまり好まないな……。そういうことは自分の意識していない中心の部分から発せられていますよね。「なんか分かんないけど好き。」このわたしだけの感覚と、問いが浮かぶということは似ているかもしれません。「これは何でだろう」「なんで?」が浮かぶということはとても自然にふっと出てくるその人個人のものです。それがとても大事なのです。

 問いとは何か。問いを持つにはどうすればいいか。かつて自分はそのように考え、考え、考え込みましたが(笑)、実はそれは他者との会話や本を読むこと漫画でもなんでもカルチャーに触れたり自分と違う文化に触れたりすることを通して生まれ出るものなのかもしれません。

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