本が読めるまで(小休憩)。

 しばらく「ほんよめ」シリーズ(とかって略してみた)を投稿していなかったのですが、ここ何日かは志賀直哉について書いています。

 投稿ができなかったのはとにかく忙しかったのと、気分が晴れなくて本を読んでいなかったのと……。読書が自分自身に還る時間になればいいのですが、何か疲れていたりすると文字が頭に入ってこないのです。読まなければいけないものは読んでいましたが……。

 以前もどこかで書いたと思いますが、何かのための読書というのはキツイですね。まあそれもいいのかもしれないけど、純粋にたのしいから読むというモチベーションでないと私は苦しくなってしまいます。今、志賀直哉を読む試みは、わりとゆったりとした気持ちで進められています。

 なぜ志賀なのかという声が聞こえてきそうですが、そこも志賀直哉の不思議なところですね。漱石とか芥川とか中島敦とか、そういう作家は教科書に載ったり、今でも文庫で各出版社から出ていたりして少ない中にも読まれているんだなという感じがします。志賀は教科書に載ってきた作品もあるのですが、成人してから文庫で読むかといわれると、うーんという感じ。文庫版で手に取りやすい作品もあるのですが、上に挙げた作家と同じように書店には並んでいないように思います。

 なぜ志賀を読むようになったかというと、(実はnoteに投稿する前から読んではいたのですが)、力のある作家の作品が読みたかったから。なんだそれという感じかもしれませんが、これが一番の動機です。志賀は電車事故にあっていますが長命です。1883年生で1971年に亡くなっているので88歳。80年代生まれで文学の変遷を肌で感じ自ら実践し、その中心ともいえる位置にいた作家は彼が唯一といってもいいかもしれません。自分の人生を書いた〈私小説家〉というジャンルでくくられますが、正直そこには収められないような作家だと思っています。

 普通だったら、電車事故にあった自分のその後の内奥の苦しみを……とかってなると思うのですが、志賀の場合はそうはならない。「城の崎にて」という作品では事故後の療養について書かれますが、そこでも自分の思いが端的に語られていきます。無理やり暗くしない、という感じでしょうか。とにかく端的で、しかしそこには〈生きる〉とか〈人間〉ってものがちゃんと含まれている。そんな感じを受けるのです。

 読んでいくものによって自分の内側は影響を受けるなーと思います。苦しくなる作家も多かったです。まだまだ志賀のことはわかりませんが、これからも力のある作家のもの、文章を読んでいきたい。そう思っています。

(おわり。志賀直哉は犬が好きだったらしい。)

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