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僕と野村ヤクルト

※記憶を元に書きましたので固有名詞、事実関係についてあやふやな部分があります。ご了承ください。
また若気の至りもございますが、温かい目で読んでいただければ幸いです。

「大丈夫だって。ヤクルトファンは大人だから」

東京ドームのレフトスタンドで友人のIが言った。
その日、東京ドームではレフトスタンドであろうとも前列には巨人ファンが数多く、ヤクルトの応援団はその後方に陣取っていた。隅っこに押し込まれた格好となったヤクルトファンから文句が漏れ聞こえていたが、そこには明らかに巨人よりも上位にいることへの優越感が含まれていた。
 この年の晩夏、野村克也監督就任2年目のヤクルトは万年Bクラスから11年ぶりのAクラスを目指し巨人と争っていた。

 それまで僕はプロ野球を見てはいたが、贔屓チームというものがないまま過ごしてきた。
高校も二学年へと進級するとそれぞれコースが変わるためにクラスメイトがガラリと変わり、なかなか友人ができないまま過ごしていた。いつからか席の隣にいたIと野球の話をするようになった。ヤクルトファンだったIからその年のシーズン終盤、東京ドームの巨人ヤクルト戦に誘われた。
完成したばかりの東京ドームに驚き、前年にブライアントの打球が直撃した天井のスピーカーを見上げた。
「奈良の大仏三体分なんだぜ」と小ネタを挟んでくるIに相槌で返しながら、売り子が掲げる小さなピザが三千円だったことに驚いた。
東京ドームは巨人の本拠地だった。

僕は巨人が嫌いだった。
それまで『ファミスタ』でも“ガイアンツ”は頑なに使わなかった。
強すぎたのだ。
代わって“ドラサンズ”か“ホイールズ”を使った。
しかし“スパローズ”は使わなかった。
弱すぎたのだ。
打率3割がゼロ人、投手は“おばにや”くらいしか使えなかった。
それが僕のヤクルトスワローズの印象だった。

 試合が始まると僕たちの後ろから鳴り物が響いた。
応援グッズを持っていなかった僕は手拍子でリズムに合わせた。
駒田が打球をキャッチするたびに「ウマこのやろう!」と後ろから怒号が聞こえる。
ヤクルトファンはまったく大人ではなかった。

 試合の詳細は覚えてないが、ヤクルトが先制した時、ラッパが鳴り響き、皆が一斉に傘を広げて東京音頭を歌い出した。傘を持っていなかった僕も立ち上がり、手拍子をして東京音頭を歌った。
前列でうなだれる(ように見えた)巨人ファンを眺めながら高揚感が僕を包んだ。
生まれて初めて感じた一体感。
気がつけば僕はヤクルトを応援していた。

「1年目には種をまき、2年目には水をやり、3年目には花を咲かせましょう」

野村克也がヤクルトの監督に就任した時に言った言葉だ。
1年目の1990年は5位に終わった。しかし1991年はAクラス。岡林洋一という新人が先発として加わり、古田は首位打者獲得(捕手としては野村克也以来)。2年目のヤクルトは水を得た。
僕はこの試合からヤクルト、いや野村ヤクルトにハマった。

 翌年、Iと僕はヤクルトの本拠地神宮球場で日曜に試合があるたびに観戦に行った。土曜も学校が終わるとそのまま向かったこともあった。
野球の試合に飢えていた。
 ロッテ浦和球場に二軍戦を見に行ったこともあった。間近で見たプロのピッチャーの投げる球は空気を切り裂く音がすることに驚き、杉浦がタバコをくわえながら素振りしていたことに驚いた。
 全面が土だった球場は、バックスタンドのスコアボードも後ろから人が数字のボードを掛けて回していた。牧歌的な風景であったが、それくらいプロ野球の試合を見ることに飢えていた。
 
 当時のテレビの野球中継は巨人戦がほとんどだった。ヤクルトの試合をテレビで観られることは少なく、日テレの巨人戦しかなかった。本拠地神宮球場のホームゲームがテレビで観られたのはフジテレビのナイター祭りでの巨人戦の3試合だけだった(花火が上がる)。それ以外で試合を楽しむのはラジオでのニッポン放送ショウアップナイターだけであった。
 毎日巨人の試合が見られるということはどういうことか。巨人の選手に無意識に詳しくなっていくのだ。二軍で活躍する大森はいつになったら一軍に昇格するのかとやきもきするようになったりするのだ。するとどうなるかというと仮想敵を理解することで野球を見るのがもっと面白くなっていく。そして巨人にだけは絶対に負けたくないと思えてくる。テレビをつければ徳光和夫が「長嶋、ナガシマ、ながしま」と言い続け、新聞の勧誘でチラつかせるのは巨人戦のチケット。読売新聞が親会社の巨人。かたや健康飲料メーカーのヤクルトの球団、このプロ野球における巨大な体制側に対して知恵で戦おうとする弱小ヤクルトという図式。
 当時10代のあのころの僕は学校や大人社会に対しての反発と抵抗を野村ヤクルトに重ねていたのかもしれない。

 1992年のシーズンが始まると、早速神宮球場へ足を運んだ。
宇都宮線で上野まで行き、山手線に乗り換える。秋葉原で中央総武線に乗り換えて信濃町で降りる。そこでヤクルトの青い帽子を被り、紐でつないだバットの形をしたメガホン二つを首から下げた。神宮外苑では許されるこの姿。ここはホームだった。信濃町の駅前にあった「まるこぽーろ」という弁当屋でカツカレー弁当を買い、歩道橋を渡り信号を先に進むと右手に絵画館、左手には軟式野球場が見えてくる。その先のバッティングセンターを通り過ぎると、目的地の神宮球場が見えてくる。そういえば当時フジテレビの「プロ野球ニュース」でこのバッティングセンターで150キロの速球を打ち続けていたキャノンくんは今どうしているのだろう・・・。

 高校生だった当時はチケット代と電車賃以外にほとんど使えるお金がなく、朝から当日券の販売の列に並び、購入すると球場まわりをぶらぶらと散歩したり、Iとキャッチボールをして試合開始まで時間を潰した。
 日が傾きだす頃に神宮球場への入場が始まる。
ゲートを通り茶色の壁の中に入ると狭苦しい通路を進む。
簡素な階段を昇ると小さな出入り口が現れ、そこからスタンドに出ることになる。

すると視界いっぱいに照明で輝く緑の芝とスタンドの青、見上げると夕焼けが始まりかけたピンク色の大きな空が眼前に広がる。

胸のすくようなこの瞬間が僕はとても好きだった。

試合前のざわめき、グランドをかけるリラックスした選手やスタッフたち。
程よい緊張感と高揚感。

ナイター照明のライトがゆっくりと一つ一つ点灯していく。
そしてグラウンドでは対戦相手の巨人の練習が始まる。
ライトスタンドのフェンス脇に居座った僕たちに向かって駒田が駆けてくる。
ホームから打ち上がった打球はライトスタンドに向かって飛んでくる。
落下地点に間に合わず捕球し損なう駒田を見ながら僕たちは「もっと走れウマ〜」とヤジを飛ばした。
辺りのヤクルトファンも同じようにヤジを飛ばした。
 何度目か捕球しそこなった駒田が、突然フェンスを乗り越えて僕たちの前に腰を下ろした。
辺りは「お〜」とザワついた。Iと僕の前で駒田は言った「ヤジはいいけどウマは止めろよ。俺も頑張ってんだからさ」と。
フェンスからグランドに飛び降りた駒田はヤクルトファンに向かって帽子を振った。背後のスタンドからまばらな拍手が聞こえた。「ウマって気にしてたんだな」とIと僕は笑った。
のちに横浜に移籍した駒田を僕は好きになった。

 その年のヤクルトはリーグ優勝をした。
野村監督は公約通り「花を咲かせた」。
しかしリーグ優勝の幸せも束の間、日本シリーズでは西武と死闘を繰り広げるも、その力の差、選手層の厚さに結果以上の大きな落胆を味わった。
後に最高の日本シリーズと呼ばれる歴史的な試合の時にヤクルトファンであったことを僕は生涯忘れないと思う。

翌年、高校を卒業してもIと神宮球場に通った。
ある日、球場が開場するまで周辺をぶらぶらしていると、室内練習場から道路を渡って球場入りする選手達に出くわした。
気づいた女性ファンたちが駆け寄り、選手達に握手を求めていた。昨年の優勝以来、目に見えて女性ファンが増えていた。池山、広沢、古田、あとなぜか城が人気だった。僕たちが遠目から眺めているとコーチら首脳陣が歩いてきたがまわりのファンはそれほど関心を示さなかった。簡単に近づけそうだったのでIと僕は走って近づいた。その中に野村監督がいた。野村監督は僕よりも大きかった。そして僕が手差し伸べると無言で手を握り返してくれた。強く握り返してくれた手は分厚く、大きくてとても硬かった。戦後初の三冠王の右手を僕は握り返した。

 その年もヤクルトはリーグ優勝。連覇だった。優勝の瞬間、僕は神宮にいた。緑のビニール傘を高々と掲げて東京音頭を大声で歌った。歓喜の中で僕はこの瞬間がずっと続けばいいのにと思った。

そして日本シリーズは昨年と同じく相手は西武だった。
3勝1敗の王手で迎えた第5戦。日本シリーズ優勝の瞬間を一目見ようと前夜から当日券を目当てに徹夜して並んだ。10月でも神宮外苑は風が冷たく、寒さで眠れなかった僕たちは球場近くのラーメン屋ホープ軒で高いのにまずいラーメンで体を温めた。列に戻る道すがらダンボールを拾ったが、野宿でのダンボールがこんなに暖かいことをこのとき初めて知った。
 第5戦は優勝どころではなかった。西武に先制されたまま膠着状態が続き、寝不足で朦朧とした中で迎えた最終回に鈴木健にトドメの満塁ホームラン。2−7の大敗であった。帰りの電車では熟睡し、自宅に帰るとサッカーのアメリカワールドカップの最終予選が行われていた。日本代表は試合終了間際にドーハで夢が潰えた。そして追い討ちのように当時付き合っていた彼女からの別れの手紙が届いていた。
悪いことって重なるものなのね。

 それから野村監督がヤクルトを去る1998年まで応援を続けた。
それでも1991年から1993年の3年間は特に濃密だった。
昨年、同業である友人から神宮球場で行われるヤクルトの球団設立50周年を記念した「スワローズドリームゲーム」に見に行かないかと誘われた。
長らくプロ野球観戦から遠ざかっていたが、古田や内藤、岡林が出場すると聞いて二つ返事で誘いに乗った。

2019年7月11日、雨がぱらつく中、僕は総武線各駅停車に乗って信濃町で降りた。「まるこぽーろ」があった一帯は近代的なビルに変わっていたが、歩道橋から先の景色は20年前と変わらなかった。絵画館と軟式野球場も変わらず、しかし正面に見えた新国立競技場に時代の経過を実感させられた。
券売所ではなく自動発券機でチケットを受け取ると球場に入った。狭苦しい場内は相変わらずで懐かしさがこみ上げてくる。同じく狭い階段を上ってスタンドへの入り口を抜けると、20年前と変わらぬ神宮球場が視界に広がった。
雨の中、球場はほぼ満員。レフトスタンドだけでなくライトスタンドもヤクルトファンだけだった。
 スターティングメンバーの発表がバックスタンドに映し出される。
一番センター飯田、二番ライト真中、三番キャッチャー古田、四番ショート池山、五番レフト荒井、六番ファースト佐藤、七番サード土橋、八番セカンド笘篠、そしてピッチャー岡林。
選手の名が呼ばれるたびに大歓声が上がる。
20年前に僕が何度も見ていた景色がいま目の間に現れていた。

監督、野村克也。

そしていままでもっとも大きな歓声。

試合が始まる。バッターボックスに飯田が入る。
そして飯田の応援歌が始まる。
あの頃と変わらない景色の中で相変わらず内藤は叫んでいたし、膝を上げて一拍とる岡林のピッチングフォームも変わっていなかったし、あの頃と変わらず城は代走だけだった。

試合は中盤グダグダになるもファンは幸せそうだった。
ヤクルトファンは大人なのだ。

時折バックスタンドに映る古田と野村監督のツーショット。
その度に沸くスタンド。
そして「秘策がある」と言った古田が野村監督をベンチから連れだした。

代打野村。

大歓声の球場内。

バットを構える野村克也とその後ろで支える真中と古田。

ファンはその光景を見守る。まるで正月に集まった親戚達が宴席の祖父を見守るように・・・。

2020年2月11日に野村監督は亡くなった。

「感謝感謝感謝」

様々な語録がある野村監督だが、優勝インタビューで野村監督が発したこの言葉が僕が一番好きだ。
もし野村監督に一言伝えるなら、僕は迷うことなくこの言葉を言うだろう。
そしてあなたのお陰で野球が好きになりましたと。



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