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狂気を観察する他者を得たことによって誕生した新たな「ヴェトナム戦争小説」/【感想】『シンパサイザー』ヴィエト・タン・ウェン

あらすじ
1975年、ヴェトナム戦争が終わった。敗戦した南ヴェトナム軍の大尉は、将軍らとともにアメリカ西海岸に渡る。難民としての慣れない暮らしに苦労しながらも、将軍たちは再起をもくろんで反攻計画を練っていた。しかし、将軍の命で暗躍する大尉は、じつは北ヴェトナムのスパイだったのだ!彼は親友で義兄弟でもあるスパイハンドラーに、将軍たちの動向を報告しつづけていた…。アメリカ探偵作家クラブ賞受賞の傑作長篇。

読み終わって、まずは考え込む作品である。

「共産主義者たちが勝つ前は、外国人たちが私たちを殺し、迫害し、辱めていました。いまは私たちと同じ民族が私たちを殺し、迫害し、辱めています。少しは進歩したんじゃないですかね。」

このような言葉が作品中のヴェトナム人の口から出ることが新鮮だ。

この作品がそれまでのアメリカのヴェトナム戦争小説と違うのは、この戦争へ向ける視線とその視線の源である観察者の立場だ。ヴェトナム人である主人公の眼差しから浮かび上がる北ベトナムのシンパ、共産主義のシンパという立ち位置、アメリカ=資本(自由)主義への共感(シンパシー)と反感(アンティパシー)といった冷戦期特有のイデオロギーが介在する複雑な感情。 

 本書を読み解く手助けとしてオススメなのが『ジャングル・クルーズにうってつけの日』(筑摩書房/現在は岩波現代文庫)だ。
ヴェトナム戦争が及ぼした影響と、アメリカがあの敗戦をどのように受容し、消化しきれずに文化的に表出(噴出といってもいい)させたのか。
政治、メディアや文化的側面からヴェトナム戦争をまとめた本書から、文学においてそれまでのヴェトナム戦争小説と『シンパサイザー』との違いが浮かび上がる。

『シンパサイザー』にはヴェトナム人のパーソナリティが描かれていることにも珍しく感じてしまうが、『ジャングル・クルーズにうってつけの日』のなかで、アメリカ人から見たアジア人のパーソナリティへの想像力の欠如、共感(シンパシー)の欠如について、スーザン・ソンタグの『ハノイで考えたこと』を引用している。

「弱小国家の民衆がもつ(誇らしげだが)謙虚な自己主張」
「ユダヤ人とは異なり、ヴェトナム人は、その精神タイプがいまだに高度の明確な分化段階(各自がたがいに相手を批判することを迫られるような段階)に達していないような文化に帰属すると考え、ヴェトナム人は“全体”としての人間であり、私たちのように“切り離された”人間ではないのだ」
「ヴェトナム人は、私がもっと容易に彼らを理解できるよう、ちっとも努力してくれない、という不平不満と、彼らが不透明に、単純素朴にみえないよう、ヴェトナム人はもっとはっきり自分を“さらけだして”ほしいという願望」

本書ではソンタグの無自覚さをたしなめているが、「ヴェトナム人は“全体”としての人間」という言葉は、知識階層でリベラルであったアメリカ人のソンタグの言葉としては、とても重い。

そして『シンパサイザー』を語る上で、“ヴェトナム小説”についての重要な言葉が本書にはある。

“ヴェトナム戦争小説の系譜における最大の不幸のひとつは、ひたすら個人の領域でこの時代の核心となる政治主題を描いてしまったことによる。
彼らがじかに目撃し体験した非通常戦争が一体どのような戦い(Fight)と事実(fact)と欺き( fictitious)に支配されていたのかをひたすらパラノイアックに描き続け、その果てに何が出現してくるかを見究めようとするあの方法である。”

“その果てに何が出現してくるかを見究めようと”したそれまでのヴェトナム戦争小説では、なにも現れなかった。現れなかったことこそが(アメリカにとっての)この戦争の本質であったという逆説的な着地であった。
『本当の戦争の話をしよう』に代表されるティム・オブライエンの一連の作品も、ジョー・ホールドマンの『終わりなき戦い』といったヴェトナム戦争を題材としたSF小説に至っても、そこにあるのは虚無的なヴェトナム戦争観である。

 The first casualty of war is innocence.
(戦争で最初に犠牲になるのはイノセンス)


これはヴェトナム戦争を描いた映画『プラトーン』公開時の本国のキャッチコピーだ。
 無垢(イノセンス)を重んじるアメリカ特有の感覚と、それを侵されることによる強い忌避感が、先に挙げた小説などの虚無感と重なりヴェトナム戦争においてこのキャッチコピーがアメリカのトラウマを代表しているのではないかと思わずにいられない。

 ヴェトナム戦争は“マッドネス・イン・マッディネス(Madnes in Muddiness:泥の中の狂気)”と呼ばれた。
『シンパサイザー』は狂気と虚無でしか語れなかったヴェトナム戦争を他方から観察する他者を得たことによって誕生した新たな「ヴェトナム戦争小説」なのである。

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シンパサイザー 上・下
ヴィエト・タン・ウェン/著 上岡伸雄/訳
ハヤカワ・ミステリ文庫
792円 ISBN:978-4-15-182851-5

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ジャングル・クルーズにうってつけの日
ヴェトナム戦争の文化とイメージ

生井英考/著
岩波現代文庫
1,892円 ISBN:978-4-00-600338-8

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