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神の水 パオロ・バチガルピ

『Flyfisher』2016年1月号掲載 

東北にツーリングに出かけたときのこと。

 青森県二戸に立ち寄った際、片側一車線の何の変哲もない道路に入るとすぐに停車し、標識をしみじみと眺めた。
国道4号線である。
東京日本橋から青森県青森市を結ぶ総延長八六九・二キロに及ぶ日本一長い国道である。
この道はるか五百キロ南にある我が故郷栃木県小山市がすぐにそばに感じられた。この道を走ればいつでも帰れる安心感と、日常からの心地よい隔絶感から現実に引き戻された一抹の寂しさが心中で混ざり合った。
また、川の上流で釣りをしているときには、自分の足元を撫でるようにかわしていく水の流れが時をかけて下っていき、いくつもの川と混ざり合い、川の名前を変えてながら海へと注がれることを考える。

 SF小説『神の水』は、地球温暖化のために慢性的な水不足に陥った近未来のアメリカ西部が舞台。ネバダ、アリゾナ、カリフォルニア諸州が、唯一のライフラインであるコロラド川の水利権をめぐり対立している。暴力と死が蔓延した荒涼たる渇いた世界を描いた傑作SFである。

 本書では〝水利権〟が重要なキーワードとなっている。この利権には上位、下位があり、舞台となるアメリカでは先取主義のために歴史が古い権利ほど取水が優先され上位となる。
 実際に日本では1924年に岐阜県で発電用の大井ダムが完成すると木曽川の水量の減少し、これによりそれまで農業用水として利用していた農民が河川法成立以前の水の利用に認められる〝慣行水利権〟を主張したという宮田用水事件があった。
 何らかの理由で水が限られた資源であることが認識されると、この水利権が強い意味を持ってくる。
本書では温暖化による水不足で、州単位でその水利権の奪い合いが始まっている世界なのだ。
 現実のコロラド川は、すでに中流域での過度の取水のために、メキシコを通り、カリフォルニア湾に注ぐ下流ではほとんど干上がっているという。

 著者のパオロ・バチガルピは、前作『ねじまき少女』で石油の枯渇した未来と行き過ぎた種子ビジネスの末路を、この『神の水』では水資源といった両作品ともに〝自然の恵み〟が一部に独占され、利権として争われる様を描いている。
 このバチガルピのSFを読むたびに、SFは書かれた時代に読むべきジャンルであると強く思う。
 例えばレイ・ブラッドベリは、一九五三年に当時アメリカで吹き荒れる赤狩りに触発され『華氏451度』を書いた。ソビエト連邦樹立直後の一九二三年にはザミャーチンが全体主義を批判したSF『われら』を書き上げ、ソ連からフランスに亡命している。またその『われら』から影響を受けたジョージ・オーウェルが戦後に書き上げた『一九八四年』は、資本主義と共産主義、東西陣営という、二択しかない戦後の新秩序への絶望から生まれた。
 このように各々の時代の社会を近い未来にクローズアップさせることによって現実の問題の重要性を浮かび上がらせるのがSF小説の面白さである。パオロ・バチガルピはブラッドベリ、オーウェルと受け継がれる現実社会の鏡としての未来世界SFの正統な作家であり、だからこそ彼の作品は今読むべきSFであると思う。

 そういえば、今や鉄道も栃木県からは都内どころではなく、熱海まで乗り換え無し一本で行けるようになった。小山駅から線路を辿ればその先に熱海があると思うと、身近になったような、寂しいような、なんとも複雑な気持ちになるのである。
 近い将来、これらの不便を解消していく先に、何を得て何が失われるかを考えてみるのも面白いかもしれない。

神の水
パオロ・バチガルピ/著 中原尚哉/訳
新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
早川書房 2,160円
ISBN:978-4-15-335023-6

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