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手越祐也さんの記者会見を見て

手越祐也さんの記者会見を見て思ったこと。
まず、すごいなということ。そして、面白いなということ。

僕はもともとあまりテレビも見ないため、手越さんについてほとんど知らなかった。名前は聞いたことがあるけれど、顔もわからなければ、ジャニーズ事務所のタレントさんだということも知らない、という程度。
ただ、なんとなく騒がれているなあという認識はあって、今回記者会見をすると言うのでちょっと見てみた。

結果として、ネガティブかポジティブかと言うよりも、すごい、面白い、と思ったのだ。
そう感じたポイントは主に二つ。

1 I メッセージであること
  「わたしはこう思った」「わたしはしたかった」というように、話の展開の基軸が全て「わたし」にあるため、人の胸に強く響き、心を掴みやすい。ロジックの乱れや質問に対する的外れな回答も、全て「だってわたしがこう思うから」という超理論で解決できてしまう。

2 堂々とした態度とロジックのスキップ
  記者会見が必要とされた背景にあるものと、当日の堂々とした態度のギャップ。あのような趣旨の会見にありがちな「目が泳ぐ」といった場面が一切なかった。それでいて、堂々とした態度でありながら著しく客観性に欠ける「わたしは」という話に終始し、言い訳がましさを感じさせないまま最後までそれを突き通してしまう潔さと心の強さがあった。

実はこれ、どちらも仏教の反対側をいく話法である。

仏教では、何をおいてもまず「如是我聞」われかくのごとくきく、と言います。お釈迦さまこうおっしゃった、それをわたしはこのように聞いた、というところがスタートになるのだ。
これはお釈迦さまの言葉を弟子が聞き、後進に伝える言葉をそのまた弟子が聞き……という連綿とした流れを整えると同時に、第一人者であるお釈迦さまのお考えと違うことを、後の者が勝手な I メッセージで伝言することを退ける仕組みでもある。
しかしながら、誰もが自分自身の言葉で語れないために、お釈迦さまが当事者として発した言葉が持っていたはずの力強さを損なってしまう面があることも否めない。

一方で、堂々とした態度はときに独りよがりでもあり、ロジック、背景、論理的思考をスキップする。
現代人はついぞそこに気を取られ、ロジカルに話せないことは欠点である、能力の不足であると考えがちだと感じている。人間の歴史を振り返っても、とりわけ大局にあってはロジックと関係ないところでものごとが動いたことが多々あったのではないだろうか。
重要なこと、譲れないことがあり、誰かに何を伝え説得したいと思う。しかしそのメッセージのロジックが完成しているか、論理に破綻はないかと考えるばかりに力強い発言ができないことがある。また、それを補うべく論理的な思考の橋渡しを丁寧に行っていくうちに機を逸してしまうこともある。
多少ロジックが破綻していようが筋がズレようが、I メッセージには、聞く人の感受性を話者のそれに強引に引きつけ、納得させてしまうような力があるように思う。場を掴み、勢いや雰囲気で空気を動かしていくことに関しては、如是我聞よりも I メッセージに分があることは間違いないだろう。

手越さんの会見を見て、すごい、面白いと素直に感じられたのは、2時間という枠を徹底した I メッセージでほぼ一人でしゃべり切った彼のパワーに感服したからだ。そして、羨ましいとも思った。何かにつけロジックを優先し、頭の中で台本を整えてから話すタイプの僕にはできない手法を堂々とやり切ったのを見せつけられたからだ。正直に言って、圧倒された。あの会見への評価に賛否両論があることは承知しているが、そのどちら側の意見にも、おそらく「圧倒された」という感覚が含まれてるのではないかと思う。すごいなと舌を巻いたとか、もしくは口が塞がらないほど呆れた、とか。

とは言っても、I メッセージのみが唯一強いパワーを持っているわけではない。如是我聞の話法だって、その場その場でそれを語る一人ひとりの人間がいるわけで、そこに説得力を持たせられないのは、語る者の怠慢だ。
要は、人に何かを伝えようとするときにはこれらの違いをよく見極め、その双方を取り入れることが重要なのだ。
僕は僕で、自分の得意とする話法をさらに磨き、せっかく示唆を頂いたのだから、手越さんのような力強い語りも取り入れていきたいものだと、一人の発言者として感じている。
僧侶である僕が伝えるべきは自分の主義主張ではなく、お釈迦さまから預かった尊いメッセージなのだとの自負があるのだから。

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