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今夜も存在の軽さを忘れたままに不思議したくてまた甘えてる  |「大豆田とわ子と三人の元夫」綴り

夢みたいな夢を抱えて最早地底生活者のもぐらのように暮らしたいつかの記憶ごと成仏できるのかも知れない。ハンサムで愛くるしい主人公とその周辺の温度に感化され、ひっそり微かにおおらかに私の心のロマンスカーな部分が自動的に動き出すような素敵ドラマが最終回を迎えた。こんな作品をリアルタイムで銀河民として鑑賞した歓びに親愛を込めて、きっと再び思い出すことは無い備忘録を綴ってみる。

例えば寝つけない夜、宇宙の秘密や心理のその先の話等をカタルシスを求めないテンションで対話が叶う相手がいるのは幸福だ。普段は勝手に奪われて行く時間も、止り木にとまるフクロウみたいなシルエットとなって切り離され、誰かが丁寧に作ってくれた絶妙な塩梅でスパイスの効いたチャイを飲んでないのに飲んだみたいな後を引く心地の良さがそのひと時にはある。

「大豆田とわ子と三人の元夫」には、そんな一見素通りして風化しそうな無防備で個人的で大切な人間関係が描かれていた気がする。一生辿り着かない遠い場所のハイソな設定を越えたその先の、喜怒哀楽がパキっとしていない曖昧さは、何時も何処か不穏さが同居し矛盾していて…。まるで己の暮らしの中で居合わせた事があったような断片を垣間見た瞬間に心拍数が上がり、気がついたら前のめりで見逃せない面白さに歓んだ。

物語の先は見えなくて、ましてやバッドエンドもハッピーエンドも実際のところ確かめることはきっと不可能だ。本人ですら死に際は振り返る余裕は無いだろうし。過去は思い出補正でカタチを変える。いったい全体誰目線での決定稿なのよ、と。素直なひねくれ者であればある程にそんな考えが浮かんでは消えて。だからこそ切り取られたフィクションへの羨望のまなざしは成立するしそう思う他無いと、悲しい哉おとぎ心が速攻で作動しなくなりつつあった昨今。夢から醒めた夢の続きは、進めば進む程に恐ろしさと同じ位に説明が付かない可笑しさもやっぱりあって。それらを体感出来た一瞬は、これまでの個人的歴史があってこそだと痛々しくも痛感させられる。

渦中の、何処までかは不明だけれどいつかは終わる「つづく」物語として、決着が付かない又は付けない「大豆田とわ子と三人の元夫」の登場人物の枠をはみ出した活きの良さに魅了されたし、まだまだ見届けていたくなった。感情が重力に影響し続ける毎日に花束を!オートチューンで歌うみたいに不思議したくてまた甘えてしまう存在の軽さと重さを抱えたり時々はそっと横に置いたりしながら、ご機嫌麗しく笑えたのなら、最高ロマンティックなのかも知れない。

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