東海道徒歩旅(別)

東海道徒歩旅の中で私が書いて、これまでに載せなかった文章のほとんど全てを載せようと思う。載せなかったのにはそれなりの理由があるから、まとまっていなかったり、そもそも矛盾していたりする部分が多々あると思うが、それでも良ければ読んでやって欲しい。その時私が思ったことを私なりに書いたはずだから、ここには嘘の気持ちなんてどこにもない。見栄や誇張はあるにしろ。
書いた日などは覚えていないので、箇条書きのような形でメモ程度に載せておく。


・月はいつ見ても綺麗だから好きだった。
丸い満月も、少し物足りないような気持ちになる半月も、痛そうなくらい鋭く尖った三日月も、線のように細い弓張月も、いつも綺麗に見えるから、月は好きだった。いつも好きだと思えるから、月は綺麗だった。

・ひたすらに、自分の影を見ながら歩く。
周りを見て楽しむ余裕はもうないから、ひたすらに足を前に運ぶ。
影を見るのはなんとなく好きだなとぼんやりと思う。実は鏡で自分の顔を見るのがあまり好きではないし、自分の声を聞くのもあまり好きではない。思春期にはよくあることだと思うのだけれど、未だにちょっと抵抗がある。影くらいがちょうどいいのかもしれないなとぼんやりと思った。 

・誰かの家の中から子供のはしゃぐ声が漏れてきて、私の耳に伝わった。
子供は子供の時から好きで、私が小学生の時によく一緒に遊んだり、一緒に帰ったりする子がいた。その子は私のクラスメイトの弟で、家族ぐるみでも仲が良かったから、よく一緒に遊んでいた。BBQやボーリングなどに家族ぐるみで行った時も、その子とずっと一緒にいたし、その子からも懐かれていたように思う。登下校の時に私を見つけるとすぐに駆け寄ってきて手を繋いでくるような人懐っこい子で、帰り道は手を離してくれずによくその子の家まで一緒に帰った。
そういうことを思い出して、懐かしい気持ちになった。

・自分が見たもの、聞いたもの、感じたものを全て残しておきたくて、たくさん写真を撮ったし、たくさんの文章を書いた。けれど、当たり前だけれど、その全てを残しておくことはできない。すでに私の記憶からこぼれ落ちてしまったものだってきっとあるだろう。それも仕方ない。仕方ない、で全て済ませてしまって、諦めてしまえばいい。けれど、そう思えない自分がどこかにいて、そのささやかな抵抗としてこうして文章を書いているのかもしれないと思った。

・ところで、あんまり関係のない話なのだけれど、「この世界の片隅で」という映画で波を飛び跳ねるウサギのようだと描写する部分があって、海を見ているとそのことを思い出した。私には今見ている波がウサギには見えなかった。もう少し荒々しい波だとしたら、あるいはウサギのように見えるのかもしれないけれど、波は驚くほどに穏やかだった。

・私が基本的に意思が弱いので、今回は自分にプレッシャーを与えるために、色々な人に東海道を歩くということを言っていた。そしたら、「すごい!」とか「よくそういうことを思いつくな」ということを言われた。自分ではこういう案が結構ある方なので、今回はその中の一つだ。まあ、これが成し遂げられたらできるような企画が何個あるので、それもそのうちできたらいいな。

・普通、自分の人生は自分が主役であるはずだが、日常生活においてずっと自分が主役であることは早々ない。少なくとも、今自分が主役であると認識することはあんまりないんじゃないか。大抵は周りに合わせて発言したり、誰かのために行動したりすることがほとんどで、もしかしたら自分を自分としてちゃんと認識できていないんじゃないか、みたいな思いは普段からあるけれど、こうして旅をしていると、ちゃんと自分の主役が自分であるし、自分の判断が全てである。よく考えると当たり前のことだが、あんまり気がつくことの無かったことに気がつけたと感じている。

・実は、始まる前はこの旅はもっと苦しくて、しんどいものだと思っていたのだが、案外楽しめている自分がいた。もちろん、苦しくて、しんどい側面はあるのだけれど、一歩一歩が確実に目的地に近づいていると実感できるのは楽しかった。人生はそういうわけにもいかないので。

・この18日間、ひたすら東京に向けて歩き続けた。旅の途中には様々なことがあったけれど、いつだって最終的な目的地は一つだった。毎日毎日歩き続ける生活は実にシンプルで、私の生活に合っているように思えた。
いつもは複雑な社会の中に生きているけれど、そういう社会から抜け出して、何も知らない土地に向けてただ歩き続けた。実際にやってみると思っていたよりも疲れたし、もう一度やろうと思えるにはもうしばらくの時間を必要としそうだが、貴重な経験ができたと思っている。

・歩いていると、次第に日が暮れていった。辺りが暗くなって、空に小さな点を打つみたいに星空が輝き出した。その微量な光は、私の足元を明るくするには心もとない光だった。私は、できるだけ街灯の近くを歩くことにした。さらに夜が深まっていくと、家々から漏れ出す光が次第に強まっていった。精神的に、それはとても眩しいものだった。

・旅に出て、私は自由じゃないって思った。自由なのに、私の心はちっとも自由じゃない。自由とは、責任から遠く離れた位置にあって、逃げて逃げて逃げた先にあるものなのかもしれないってその時に思った。
私は旅をしている間、自由だった。けれど、同時に、この自由はずっとは続かないという確信を持った。旅をしている間、私は毎日家族や友人に生きていることを証明しなければならなかった。しなければいけないことが浮き彫りになった。帰らなければならない日が明確にあった。こんな日々は一瞬のもので、これが終わってしまえば私はただの学生で、ただの人間で、ちっぽけな粒でしかなくなってしまう。客観的にも、そして主観的にも。
私にとって、自分の人生の主人公は自分じゃなかった。普通に生きていると、自分の思い通りになることの方が少なくて、周りに合わせたり、常識に囚われたり、ルールに則ったりして生きているということが分かる。自分の意思なんて無くて、あるのは小さな反抗だけだ。

・ずっと旅をしていたいなと思う。
様々な場所に行って、いろいろな人に会って、別れていく。
そういう生活になぜか昔から憧れていた。
旅人という職業が存在するのなら、なってみたいなと思う。けれど、その一方で安泰を、安住を求める自分がいて、きっと旅人になんてなれないのだろうなと思う。
私は人よりも不安を感じやすい性格だし、きっと途中で辞めてしまうんだろうなと思う。
だから、憧れは、憧れのままで。
たまに家の2階の、屋根の上から見る黄昏がやけに美しく見えるように、たまに旅に出てみるくらいがちょうどいいのかもしれない。
きっと、そういうバランスが向いているのだと思う。

・何事も丁寧にこなすと、うまくいく。今の社会では合理的で、素早いものが得をするから、全てのことを丁寧にこなすことはできないのだ。妥協しても、素早く、合理的に物事を判断して、"こなす"ことがうまく生きるために必要なのだ。うまく生きていくためには何かを失わなければならない。それは、大抵の人にとって時間というものだった。多くの人は時間を売って金を稼いでいるのだ。
私は今、時間やお金を使って旅をしている。
うまく生きることができないから、旅をしているのかもしれない。この旅が終わった後、私は何を思うだろうか。うまく生きるために、何をしなければならないのだろうか。

・黒色に染まる前の、紺色の空だった。
それは、夜空と呼ぶには明るすぎて、青空と呼ぶには暗すぎる。そんな、中途半端な空を見て、美しいなと思った。
雲の影がはっきりと映し出される。雲は、青空の下では白く明るいけれど、紺色の空の下では逆に暗く影のように見える。

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