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「善の研究」はタイトルで売れた

昨日(5月19日)は西田幾多郎の誕生日だったので、岩波書店がこんなツイートをしていた。

今日は哲学者・西田幾多郎の誕生日(1870年)。1947年の『西田幾多郎全集』第1巻発売時は、小社の前に徹夜組の行列ができるほど話題を呼び、代表作『善の研究』は哲学書ながら120万部を突破する異例のベストセラーとなりました。

@iwanamishoten

「120万部」というのが、どのエディションのことか分からない。たぶん、1922年の岩波書店での再版以来、岩波文庫版を含めての部数だろう。

いずれにせよ、日本の哲学書最大のベストセラーであろう。

そして、その売れた理由の第一に、「善の研究」というタイトルがよかったことが挙げられる。

タイトルがいいから売れる、という例は枚挙に遑がないが、「善の研究」は、その日本の出版界の代表例と言っていい。


「名編集者」の存在


このタイトルを発案したのは、著者の西田ではなかった。

それが、哲学者で東京帝大の後輩、紀平正美(ただよし)の発案であったことが、比較的最近発見された書簡で明らかになっている。しかもすぐには決まらず、紆余曲折があったらしい(朝日新聞1993.10.20)。

「善の研究」の初版は、1911(明治44)年、岩波ではなく、弘道館から出版された。紀平は、「善の研究」の出版を弘道館に斡旋した。いわば、編集者役、出版プロデューサー役を果たしていた。

なぜ紀平は、本書に「善の研究」というタイトルをつけたがったのか。


「純粋経験と実在」が正しいタイトル?


というのも、本書の内容からは、「善の研究」というタイトルはなかなか思い浮かばない。

「善の研究」は、1906年から1909年にかけて発表された以下の4つの論文から成っている。(カッコ内は「善の研究」内での章題)

「実在論」(第2編「実在」)
「倫理学説」(第3編「善」)
「純粋経験と思惟、意志、及び知的直観」(第1編「純粋経験」)
「宗教について」(第4編「宗教」)

この構成から、「善の研究」という書名はストレートに出てこない。これは、西田の研究者である藤田正勝(京大教授)も認めている。

『善の研究』の構成を考えたとき、なぜこの書に『善の研究』という表題が付されたのか、という問いが浮かび上がってくる。思想全体の根底である<純粋経験>や、この書の「骨子」とも言える第2編で論じられた<実在>が、なぜ表題にならなかったのか。そのような疑問を禁じ得ない。

「現代思想としての西田幾多郎」p34

実際、私も前にブログで書いた通り、本書の核心は、最初に書かれた「実在」にある。だから、同じ「研究」を使うなら、「実在の研究」の方がふさわしかった。

しかし、「実在の研究」や「純粋経験と実在」というタイトルでは、「善の研究」ほど売れなかったであろう。


ドイル「緋色の研究」の影響?


では、なぜ「善の研究」というタイトルになったのか。

紀平正美自身がどう考えたかとは別に、突飛かもしれないが、「〜の研究」というタイトルは、コナン・ドイルの「緋色の研究」の影響ではないか、と私は考えた。

シャーロック・ホームズものの第一長編「緋色の研究」は、1899(明治32)年、毎日新聞に連載された。これが日本初出だ。紀平も西田も20歳前後であり、記憶に残っていておかしくない。

しかし、これは見当はずれであった。いま「緋色の研究」の訳語で定着している A Study in Scarlet の、毎日新聞連載時タイトルは「血染の壁」であった。

「緋色の研究」の訳語は1931(昭和6)年、延原謙のが初出だから(wikipedia「緋色の研究」)、むしろ「善の研究」から「緋色の研究」への影響が考えられることになる。


Studies in Zen の影響?


次に思いついたのは、「禅」の思想家、鈴木大拙からの影響である。

「善の研究」は、深い意味で、「禅の研究」でもある。これも私はブログに書いた。

そしてこれは私だけの思い付きではなく、定説と言っていい。

一般に広まっているのは、西田哲学は禅の経験を哲学的に解明したものだという理解である。特に海外で西田哲学が禅と結びつけられるようになった原因の一つは、西田の死の十五年後に出版された『善の研究』英訳本に付された大拙の序文にある(A Study of Good, translated by V. H. Viglielmo, Printing Bureau, Japanese Government, 1960)。“How to Read Nishida”と題して、大拙は『善の研究』が禅の経験を知的に分析したものであるということを力説し、西田は禅を西洋に理解させることを自己の使命と考えたとまで述べている。

気多雅子「思想の言葉」

「善の研究」というタイトルの含蓄は、「禅の研究」という裏テーマを暗示しているところにもある。

それとは別に、もしかしたら、鈴木大拙の「禅の研究」が脳裏にあり、そこから「善の研究」を思いついたのかも、と思ったのだ。

西田の高校の同級生、鈴木大拙は、禅仏教を英語圏に広めた人である。

いまも読まれている鈴木の著書名は Studies in Zen だ。

鈴木大拙の 「Studies in Zen」

西田幾多郎の「善の研究」

延原謙訳の「緋色の研究」

この影響関係を証明できれば、俺も博士号だな、とさっき屁をこきながら思ったが、これも見当ちがいのようだ。

私がチャチャっと調べた限りでは、鈴木の禅の紹介本が英語圏で出るのは、1920年代以降だからである。


しかし、鈴木の書名と「善の研究」英題を並べると、似ているのは否み難い。

Studies in Zen

A Study of Good


「人生の問題」


結局、紀平がどこから「善の研究」というタイトルを思いついたか、私が朝飯を作る前にネットで調べただけでは分からなかった。

だが、西田がその提案を最終的に受け入れた理由は、西田自身が「序」に書いている。

この書を特に『善の研究』と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占めおるにも拘わらず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である

「善の研究」序

哲学の抽象的な話ではなく、「人生の問題」を考えている。タイトルから、それが伝わったから売れたわけであり、まさに著者、出版社の狙いどおりになった。


なお、「善の研究」が実際にベストセラー化したのは、1921年に倉田百三が『愛と認識との出発』で紹介したからとされている。

その翌年、岩波が「善の研究」を再版したのは、倉田の本が売れたことで問い合わせが多かったからだろう。


そして西田幾多郎は、その後40年以上生きたが、30歳そこそこで出した『善の研究』より売れる本を書いていない。

その後に出した本は、『自覚に於ける直観と反省』とか『絶対矛盾的自己同一』とか、こう言っちゃなんだが、売れそうにないタイトルばかりである。

『善の研究』という名タイトルを思いついた、紀平正美という「名編集者」の存在とひらめきが、いかに貴重であったか、ということだと思う。

(しかし、編集者やプロデューサー役の功績は世間に知られないまま終わる。著者も売れれば、自分の力であり、タイトルのおかげとは思わない。まあそんなもんで、それでいいのだが・・)










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