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当事者の勇気を踏みにじるな。

おはようございます。
日菜子です。

なんでこんなにもつらいことをつらいと言えない世の中なのでしょうか。
本当に本人の勇気の問題だけでしょうか。

つらいということがどれだけ当たり前であるか。
自分のつらさを軽視されるとき、「やっぱり甘えなのかな」と何度も自分を責めた。
けれど、もう私は私のつらさを自分の尺度で測ってくる人からは逃げるし、自分のつらさを人の価値観で惑わされないようでありたい。

つらい人が見かけだけでも適応できるように必死にその気持ちに蓋をすることにどれだけの意味があるのだろうか。

この1年、いろいろなことができなくなったり、やっぱりできたりを繰り返す中でその様子を見ていた人たちは「あいつ甘えなんじゃないの?」と疑念を深めていった。
それを実際にぶつけられたこともあって、本当にやりきれなかった。だって、甘えだろ、という指摘に対して、違います、と言えても、それは相手が私を信じる材料にはならない。
それにそう思われたくないからって、本当はできることもできないふりしなくちゃいけないなんて、私は誰のために生きているのかわからない。

具合が悪くても頑張れることもあるし、具合が悪いために頑張れないこともある。その私の主観を誰かに侵されるのはよく考えたら本当におかしいし、なんでそうも簡単に自分の価値観で人を測れるのかちゃんちゃらわからない。

今、さまざまなつらさを抱える当事者が勇気を出して声を上げている。汲み取ってくれる人もいる。でも自分の中でうまく加工して、フィットするものしか汲み取ってもらえていない現状も実際にはあると思う。

ただでさえ、いろんな偏見とか厳しい言葉を恐れて、自分のつらさを隠す世の中で、頑張って発せられた声がそういう無神経に押し潰されてしまうことが悔しくて仕方ない。
頑張らなくてはいけないのは声を上げる側だけなのでしょうか。声を上げる運動をする力があるなら、もっといろいろできるだろう、とか、つらいのはみんな同じ、アピールしたいだけだろう、とか、そういう発言や視線は本当にやめて頂きたい。
あなたやあなたの大切な人のつらさが、勇気を振り絞って出したその声が、そうやって踏みにじられたらどうでしょうか。
人にされて嫌なことはしてはいけないのです。

いつも本当に悔しくて。
いつだって自分は怠けているのではないか、と私だって自分に疑念を抱いている。
でも、あえて、対外的には自分のつらさを全肯定で生きていこうと思う。
それしか私にできる理解ない外野への反骨はないからである。

日菜子

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