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文章が書けなくなっている

コロナショック以降、思考の詰まりを感じている。

自分の特性でもある「拾い癖」思考は、混乱期に合わせて無意識化で激しく稼働しているのかもしれない。それは経営者として、個人として、編集者として。ありとあらゆる顔を使い分けて、テレビやSNSの膨大な量の情報を浴び続けている。

そこには正しく判断したいというよりも、多くの情報に触れることによって安心感を得たいだけなのだろう。そもそも私はSNSを通して政治的な発信や混乱期の情報を積極的にシェアする方ではない。あくまで目の前に起きている日常の景色や仕事の報告をする場所にしてしまっている。

言い方を変えるとSNSを信じていないのかもしれない。

ここ数ヶ月考えていることがひとつある。それは人間の欲求がSNSによって小さく小さく細切れに処理されているのではないか?ということ。Twitterの140文字でも、Facebookの長い投稿でも、instagramの写真一枚でも。世の中に登場したときは「なんて楽しいツールなんだろう!」と喜び勇んでいたし、いまもヘビーユーザーとして全SNSを使い分けてはいる。

だがその一方で小さく細切れにされた欲求が世の中を変えるに値するのか?と考えだしたら、むしろ喜怒哀楽を小さく処理してしまうことの難しさも孕んでいるんじゃいかと疑い始めている。瞬間の個人の精神衛生は、小さく処理したほうがスッキリするのは事実。だが大きな何かを変えるためには、小さく処理せず、マグマみたいなエネルギーを溜めに溜めた「分厚い感情の実行動」が必要なときもあると思う。

とにかく感情の処理が早くなっている。だからこそ立ち止まって、しっかり考える生活に自分自身を戻さないといけない。植物に水をあげて、土を掘り返して種を植え、毎日2食分の自炊をする。もちろん仕事はぼちぼちやっているけれども、気づいたら一日があっという間に終わっている。Switchの「あつまれ どうぶつの森」を始めたのもちょうどいい現実逃避の装置なんだろうな。

そおおおおんなことを考えていると、文章が書けなくなった。パソコンに向き合っていま文章を書き始めたのも数週間ぶりだ。ただこの文章を書き始めた時点で、「withコロナ」の未来の世界に対して少しずつ生きる覚悟が固まってきたのかもしれない。これからが不安の本番。幸い長野拠点で過ごして2週間近く経っているのも、自分の心を後押しているのだろう。

やるべきことは、生活を小さくしていく未来を描くこと。Huuuuのメンバーや全国の友だち、仲間たちをサポートすること。これまで取材を通して学んだことを体現すべく、自分のメシは自分で作れるようになること。そのすべてをやりきるために、ちゃんとしたメシ食って、しっかり湯船に浸かって、日常に運動を取り入れて、健康的な睡眠を確保する。自分で自分を管理することはとてもむずかしいけれど、困難な人生には免疫がある。9割のしんどいことを乗り越えた先に1割の幸せがあるなら、そのしんどさにちゃんと向き合って、己の不安で誰かを傷つけないよう生きていくしかない。


先日亡くなったC.Wニコル×養老孟司の対談本に、「withコロナ」の生き物としてどう暮らすか?のヒントがたくさん書かれていて超おもしろいです。いまこそ「身体」を取り戻そう。おれたちゃ人間の前にヒトなんだからさ。

1982年生まれ。全国47都道府県のローカル領域を編集している株式会社Huuuuの代表取締役。「ジモコロ」編集長、「Gyoppy!」監修、「Dooo」司会とかやってます。わからないことに編集で立ち向かうぞ!