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『京都』第二の故郷の話

私は佐賀で18歳までを過ごした。魅力度ランキングでは毎年最下位争いしているが大切な私の故郷だ。この話もいつか書きたいと思うのだが、今回は年越しを過ごした第二の故郷の話をしようと思う。

私にとっての第二の故郷は間違いなく京都である。大学生活の4年間を京都で過ごし、今では一年中人で溢れるあの街は“観光地”でなく“帰る場所”になっている。

死に物狂いで勉強して受験戦争に見事勝利した私は、3月27日に京都での生活をスタートさせた。引っ越しを手伝いに来ていた母と弟と京都駅で別れるとき、二人が泣きそうな顔をして新幹線の改札をくぐったのを今でも鮮明に覚えている。実際に新神戸くらいまで泣きながら帰ったらしい。その二人を見て私も泣きそうになったけれど「決めたのは自分だから私は泣いちゃだめだ」と、二人の背中が見えなくなった後、涙をこらえて踵を返し、桜シーズンの渋滞でまったく進まない206系統のバスで家に帰った。我ながら18歳の私かっこいい。

京都での新生活は正直不安だらけだった。京都はおろか関西圏に親戚はいなかったし、同じ高校から進学してきた人も大学にはいなかった。口座を開設しようにも銀行の場所はわからない、自炊を始めようにもスーパーがどこかもわからない、困ったときにすぐに助けに来てくれる人もいない。そんなスタートだった。
4月になり新歓にぼちぼち参加し始めて、先輩や同じ新入生の知り合いができて、少しずつ不安からわくわくに気持ちはシフトしていった。授業が始まり大学での勉強も面白かったけれど、正直勉強より遊びを優先していたと思う。必修科目が多かったから週22コマくらいは履修していたし、「単位は降ってくる」という先輩達の言葉に甘えて少しさぼったのも許して欲しい。

街にも少しずつ慣れていった。家のすぐ近くにあるパン屋さんは朝7時から開いていて、さつまいものベーグルが大好きになった。家から徒歩5分の距離には鴨川があった。川沿いのベンチに座って本を読んだり、センチメンタルな気分になったときは心のもやもやを水と一緒に流してもらった。住んでいたのはあんまり良いお部屋ではなかったけど、立地がくれたこの2つは本当に大好きだった。

街に慣れ、生活していくうちに今度は京都の季節を知った。
春の桜の美しさに心が躍った。古に生きた人たちが桜を題材とした歌を多く詠んだのも納得だった。鴨川沿いを用もないのに満足するまで歩いた。
鴨川に納涼床が出るのを見て、祇園祭一色になっていく街を見て、夏の到来を感じた。が、実際夏になるとその暑さに絶句した。うだるような暑さという言葉がぴったりだ。
そんなこんなしていると一瞬で過ぎ去る秋が来る。毎年「今年秋あった?秋服っていつ着ればいいの?」と言っていた気がする。なんせ昼間は夏、日が暮れると冬、みたいな気温なのだ。紅葉が見頃を迎えるころにはもう厚手のコートの出番である。自転車で永観堂に紅葉ライトアップを見に行った。「永観堂でええ感動」とみんなツイートする。
秋が分からないまま冬に突入していて、体の芯まで冷やす寒さに苦しめられる。本当に寒い。九州出身者には耐え難い寒さである。明日雪が降ったら金閣寺に行こう、そう思って布団に入るものの朝が来ると布団から出ることはまずできない。結局一度も見に行けないままだった。お正月の初詣は八坂神社、下賀茂神社、平安神宮に行くのがお決まりだった。お正月に浮かれて大抵露店で温かいものを買ってしまう。

それを4回繰り返し、新生活の始まりと同じ3月27日、私は大学を卒業した。社会人となり職場で「今度京都行くんだけどいいお店知らない?」と聞かれれば「どういう系統が良いですか?京都っぽいものが食べたいとか、イタリアンとかだけど建物は町屋造りとか!」と喋りだしたら止まらない。祇園にある飲食店でバイトをしていたおかげで、お座敷文化にも少しだけ詳しくなった。 行動範囲が限られていた高校生までと違い、大学生になると、どこまででもどれだけでも行動できるようになる。人に一番案内できる街が京都になったことを嬉しく思う。

と同時に、知らない街が“第二の故郷”になったことは誇りでもある。ずっと地元で、九州で生きていくことを選ばなかった18歳の私に心から感謝している。19歳を目前にしたあの3月27日は人生の中で一番大きな一歩を踏み出した日だ。京都での4年間が今の私を強くしてくれていると思うし、逃げ出したくなった時には「18歳の私に出来たんだから!」と自分を励ましている。

「安定より少しの冒険心を」
京都に帰るたびにこの気持ちにも帰ってくる。
また“ただいま”を言うために、私は今日も東京で戦っている。


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