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『目の見えない人は世界をどうみているのか』伊藤亜紗 「景色が変わるよ」

このnoteは、本の内容をまだその本を読んでない人に対してカッコよく語っている設定で書いています。なのでこの文章のままあなたも、お友達、後輩、恋人に語れます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤亜紗

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○以下会話例

■世界をどう見ているのか知ることで世界の見方が変わる

 「新しい価値観に触れられる本か。そうだな、そしたら伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』がオススメかな。この本は、まさに新しい価値観を教えてくれる本なんだ。

著者の伊藤亜紗さんは、東京工業大学で人間のあり方を障害を通して研究している方なんだ。伊藤さんはこの本を通して、目の見えない人が世界をどのように捉えているか、いわば「見ているか」を紹介しているんだよ。この本を読むことで、目の見えない人の世界の見方を知ると同時に、自分の世界の見方も変わる不思議な体験ができるんだ。

■違いを面白がって良い

伊藤さんはこの本で、見えない人と見える人の関わり方として、「違いを面白がる」という方法を提案をしてるんだよ。

多くの人は、障害のある方に対して「何かしてあげなければいけない」、「色んな情報を教えてあげなければいけない」と構えて関わっているから、一種の緊張感が出てしまってると言うんだ。

そこで伊藤さんは「障害者と健常者の違いは、3本脚の椅子と4本脚の椅子の違いと同じだから安心して」と言ってるんだ。

目をつぶって何歩か歩いてみて、目の見えない人の擬似体験をしたことあるよね。でも、それは視覚情報に頼った人間から視覚を奪った世界なだけで、目の見えない人の世界とは違うらしいんだ。

つまり、目の見える人が目をつぶることは4本脚の椅子から脚を1本抜いたようなものなんだ。だからバランスが取れない。一方、目の見えない人は、元々バースツールのような3本脚の椅子なんだよ。3本脚でバランスが取れるように設計されているから、3本脚でなんの問題もないんだ。

バイクと車の違いみたいなものだよね。バイクと車とは、曲がり方、スピードの上げ方、止まり方がそれぞれ違うし、「バイクはタイヤが2個しかなくて可哀想」とは思わないよね。

そもそも身体の使い方が違うのだから、お互いの身体の使い方を理解して、その違いを面白がることが大切だって言ってるんだ。なるほどなって思うよね。

■内と外の概念がない

この本で僕が面白いと思ったのは、内と外の概念の話。目の見える人は、外は見える側であり、内は見えない側という認識があるよね。だけど、見えない人にとってはどちらも「見えない側」だから、内と外の概念が成立しないんだ。

ある盲学校の美術の先生の話では、粘土で立体物を作る授業で、全盲の子が壺のような物を作り、その壺の内側に細かい細工をしたそうなんだ。見える人には外側に細工する方が自然だけど、目の見えない人にとっては内も外も同じ「表面」なんだよ。

つまりその子にとっては、壺の「内」と「外」とは等価だったということです。決して「隠した」わけではなく、ただ壺の「表面」に細工を施しただけなのです。

■目の見えない人は立体的に理解してる

他にも、空間把握の違いに関しては、見える人と見えない人の「富士山」の認識の違いにも表れているんだ。

例えば「富士山の絵を描いて。」って言われたらどんな富士山を描く?きっと銭湯に描かれてるような、真横から見た三角形の富士山を描くよね。でも目の見えない人は、富士山を「上がちょっと欠けた円錐型」として認識しているらしいんだ。

富士山が薄っぺらの平面ではないことを知ってるけれど、ヘリコプターに乗って上から見ない限り、目の見える人にとっての富士山は横から見た三角形だよね。でも富士山を実際に見たことがない目の見えない人は、富士山を模型を触ったり、実際に登ったりして「見てる」から、立体的に理解しているんだよ。つまり目の見える人は平面的に、見えない人は立体的に「見てる」んだ。面白いよね。正しい正しくないの問題ではないけれど、目の見えない人の捉え方の方がより正確だよね。

■平面的な日本人

これを読んで、目の見える人の富士山の捉え方は、富嶽三十六景の影響かなとも思ったんだ。日本人、いや世界中の人の富士山への視覚イメージは、葛飾北斎の富嶽三十六景が強く影響してるはずだよね。実際に富嶽三十六景の全46作品を確認すると、真横から見た富士山しか描かれていないんだ。立体的な富士山は一つもなかった。

葛飾北斎が生きた江戸時代は飛行機がないから、僕ら以上に「平面的」に富士山を理解していたんだろうね。実は富嶽三十六景に限らず、浮世絵は平面的な絵が特徴なんだ。当時立体的な絵を描いてた西洋文化圏の絵描きは、浮世絵を見て、独特な空間描写と色づかいに衝撃を受けたんだ。当時の日本人も立体的な西洋の絵を見て、初めて立体的な絵を描くようになったんだ。

だからそもそも日本人は平面的な認識をしがちなのかもしれない。立体的な見方をする西洋人は、目の見える人と見えない人との空間認識の違いは、日本人ほど差がないかもしれないね。

『目の見えない人は世界をどう見ているか』では、こんな風に見えない人の世界の見方を解説していって、僕らの目の見えない人に対する認識と、見えてる世界の認識を変えていくんだよ。

■手話サークルでのショック

実は僕も、伊藤さんが指摘する、障害者に対して緊張感を持って関わる人だったんだ。

大学1年生の春、僕は高校からの友人とふたりで手話サークルに入ったんだ。主な活動は、週末に聴覚障害のある方を数人招いて一緒に手話を学ぶこと。僕らが入部した理由は、可愛い先輩が多いからという不純な動機だったんだけど、それなりに楽しく真面目にやっていたんだよ。

手話も少しできるようになったある日、サークル活動の後にみんなで食事会をしたんだ。席について食べ物を注文し終わると、僕は「あ、どうしよう」と詰まってしまったんだ。「耳の聞こえない人と何を話せばいいんだろう」。

毎週のサークル活動は、その日のテーマに沿って「休日は何をしてますか?」とか「駅にはどうやっていけばいいですか?」とか、決まったフレーズがあったから「会話」は成り立ったんだよ。

でも突然お題もなくフリーに会話しろと投げ出されたら、途端にフリーズしてしまったんだ。取り敢えず覚えた手話を使って出身地を聞いたんだ。だけど返答された手話が分からなかったり、自分の伝えたいことが表現できなかったりして、「あー、あはは」と愛想笑いをして、すぐ会話が止まってしまったんだ。

健常者とは楽しく笑いあって話せるのに、聴覚障害者を前にすると急に黙ってしまって、自分の人間力の低さに恥ずかしくなったんだ。

「まだ手話があまりできないからしょうがない。もっとできるようになれば楽しく話せるようになるか。」と思って、ジョッキを手に取り、チラッと隣のテーブルを見ると、一緒にサークルに入った高校からの友人が腹を抱えて笑っていたんだ。

えっと思ってよく見ると、彼はスマホに文字を打って相手に見せて、耳の聞こえない障害のある方と笑いあっていたんだよ。

僕はものすごくショックを受けたんだ。伝える手段は手話だけじゃない。スマホにうったり、紙に書いたり、できる先輩に通訳してもらっても良い。僕に足りないのは手話の能力じゃなかったんだ。

結局僕は、1年生の終わりにその手話サークルを辞めてしまうんだ。

■Tさんとの出会い

それから時は経って3年生になった僕は、手話サークルと別に入っていた演劇サークルで、ミステリー作品の脚本を書いたんだ。ラストに衝撃の事実が明かされる、いわゆるどんでん返しの作品を考えてたら、「登場人物が皆、目が見えていなかったというオチにしたら面白いんじゃないか」って思いついたんだよ。

観客には登場人物が普通に生活してると思わせて、目が見えないことで起きる勘違いやトリックを盛り込んで最後にそれを明かす、という脚本が完成したんだ。満足いく出来だったけど、ひとつ引っかかりがあったんだ。それは「目の見えない人がこの演劇を観たらどう思うだろうか」ということ。

僕が書いた脚本は、視覚障害をオチとして扱うミステリーなんだ。悪く言ったら障害を「利用してる」から、当事者が見たら気分を害するのではと思ったんだ。

その懸念をサークルの部員に話すと、部員のひとりが視覚障害のある方に連絡をとってくれて、その子と2人で意見を聞きにいくことになったんだ。

意見を聞かせてくれる方は、先天的な全盲があり大学教員をしてる男性で、結婚されてお子さんのいるTさんという方だった。僕らはデパ地下でケーキを買って、ご自宅に伺ったんだ。

家の前につきチャイムをならすと、奥さんが出迎えてくれた。リビングに通されると、6人がけのテーブルの奥に濃い色のサングラスをしたTさんが笑顔で座っていたんだ。Tさんと奥さんは、僕らがリラックスできるように、親戚の子を迎え入れるような暖かい空気を作ってくれた。ケーキを渡して、自己紹介をして、お礼を言って、早速今回の脚本について、視覚障害をオチに使うことについて、どう思うか聞いてみたんだ。するとTさんはすぐに「面白そう!観てみたい!」と言ってくれたんだよ。

その言葉を聞いた瞬間、僕はとんでもない勘違いをしていたんだって気づかされたんだ。

僕はこれまで、障害者と健常者の違いを指摘することを避けて生きてたんだ。障害のある方と接する時は、健常者と同じように振舞うことが正しくて、障害に触れてはいけないと思っていた。なぜなら、障害を可哀想だと思っていたから。だけど、Tさんの「面白そう!」という言葉や、その後のお話で、障害はただの違いで、可哀想なものではないって気づかされたんだ。

障害のある彼ら彼女らは、毎日悲観して生きている訳では全くなく、障害を当たり前のものと考え、ごく自然に生きていたんだ。よく考えれば当然のことなのに、直接会って話さないと分からなかった。

手話サークルの食事会で会話が止まってしまったのも、「障害に触れてはいけない」と思ったからなんだ。違いを見ないようにしてたから、一歩も踏み込めずにいたんだ。

Tさんは目が見えない人ならではのことを教えてくれた。例えば、Tさんは明かりがいらないから、夜電気を付けずに真っ暗な部屋で仕事をするそうなんだ。部屋に入ってきた家族が電気を付けて、暗闇の中からTさんが現れてびっくりするらしい。他にも、普段濃い色のサングラスをしてるから「会議中に寝てもバレない」とも言っていた。

さらに、家の中を見学させてもくれた。生活しやすい様に色んな工夫がされているんだ。まず、ミニマリストのお家のように必要最小限のものがすぐ手に取れるように整理されているんだよ。声が通るように天井は吹き抜けになっていて、雑音になるテレビもない。床には段差が一切ない。フローリングをよく見ると、一枚だけ木目の凹凸がある板があるんだ。それはいわば点字ブロックの働きをして、その板を足の裏で辿ると全部の部屋に通じるようになっていた。

習い事から帰ってきたお子さんも交えてお喋りして、つい長居してしまい、Tさんをふと見ると、先生から隠れてスマホをいじる高校生並に首を曲げておもいっきり寝てたんだ。「寝てもバレないって言ってたじゃん」と笑い、僕らの公演のチケットを渡し、家を後にしたんだ。

クリスマスの雰囲気が漂う12月中旬、2日間行った公演の2日目に、Tさんと奥さんが観にきてくれ「面白かったよ!」と言ってくれた。

公演を無事終えた1週間後、遅めのお昼を食べに、ひとりで大学の近くにあるつけ麺屋さんに行ったんだ。カウンターだけの小さな店内には僕の他に2人組のおじさんが座っていた。食券を店員さんに渡し、案内された席に座ると、右隣に座ってるおじさん達が向かい合って手話をしていたんだ。「久しぶりに手話見たな」と思って、僕はひとりスマホを見ていたんだ。

「カ、カレーつけ麺のお客さま」と聞こえ前を見たら、店員さんがカウンター越しに、おじさん達につけ麺を渡そうとしていたんだ。だけどおじさん達は耳が聞こえないから、店員さんに気がついてないんだ。

「あ、チャンスかも」と思って、背中を向けてるおじさんの肩を叩いて、「か・れ・ー」と指文字を作って、店員さんを指差したんだ。おじさんは驚きと嬉しさを合わせた顔で慌ててつけ麺を受け取って、「手話・できるの・?」と聞いてきたんだ。「1年生の時・少し・大学で」と返すと、笑顔で「あそこの・大学・?」と聞くおじさんを見て、ふと「この人、カレーつけ麺なんて頼むんだな」って思ったんだ。

このつけ麺屋さんは濃厚つけ麺が人気で、ほとんどの人が濃厚つけ麺を頼むし、現に僕も濃厚つけ麺を頼んでいたんだ。何度もお店に来てるけど、カレーつけ麺があることを知らなかったし、まずカレーつけ麺なんて食べたいか?カレーライスでいいだろって思っちゃったんだ。

今ならいけるかもと思って、「カレーつけ麺、美味しい?コッチの濃厚つけ麺の方が絶対うまいよ」とほとんどジェスチャーゲームのような手話をすると、おじさん達は面白がって「じゃあ食べてみろ、絶対カレーの方が美味しい」とのってくれたんだ。

つけ麺を食べ終わるまでの15分くらい、頭がキレキレだった一年生の頃覚えたできる限りの手話と、笑顔が良いと褒められる表情筋と、180cmを活かした身振りで、声に出してるくらい自然に会話ができたんだ。

僕の方が早く食べ終わって、「じゃあね」と手を振り、ドアを開けて12月の寒空に出たんだ。大学に向かって歩いている時、微かに、静かな充実感と励ましを感じられたんだ。僕は初めて違いを面白がってその人自身に興味を持って会話ができたんだよ。

隣のテーブルでスマホに文字をうって楽しそうに会話していた友人のように、障害者というラベルを剥がした関係性を築けたような気がしたんだ。

■違いをなくすのではなく、違いを認め合う

伊藤亜紗さんが提案する「違いを面白がる」という考え方は、障害者と健常者の壁をなくす方法としてとても良いと思う。決して障害をアンタッチャブルなものだと思わず、気楽に接して、違いを認めあう世界ができれば最高だよ。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』は、「障害は触れてはいけないもの」と考える大人の凝り固まった頭を柔らかくして、素直な目で世界を見させてくれる本なんだ。

目が見えないとか、耳が聞こえないとか、腕がないとか、背が低いとか、マッチョだとか、髪が綺麗とか、色んな違いを面白がることで、その間にあった緊迫感がなくなって、守るものと守られるものではなく、対等で自然な関係を築けるようになる。

もし、今まで障害のある人に対して、ステレオタイプな考え方を持っていたら、是非この本を読んでみて。いつもの帰り道が違って見えるよ。」


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