『雪の暮れ』
はっきりとした理由や意識がないままに事が起こる、と云うのはありえない話ではないが、そうそう頻発してもらっては困る。
「ふと」とか「不意に」などと云うご都合主義的展開はどのようにして発生するものなのだろう。例えば動画の編集でもするように視覚情報なりが脳内で取捨選択され、どこかの経緯がすっぽりとカットされた場合に起きたりするものなのだろうか。
そこにあるのはより精度の増した現実感か、それとも違和感か、俺の場合は後者だった。
気付いた時には既に雪の降る森のなかに居た。傍らには少年がひとり立っている。
「何処だここは? それにこいつは誰だ?」
俺は少年を見て少しばかり驚いた。
見覚えのある青いつなぎのスキーウェアに帽子と手袋。顔を見るまでもなく俺には判った。少年は幼い日の俺自身だった。きっと服の裏側だとか手袋の袖口には俺の名が平仮名で書いてあるに違いない。
──これは夢か?
どちらにしても現実でないことだけは確かだ。そうでなければ、俺は遂にどうにかなってしまったと云うことだ。
少年が夢想し思い描いた姿を夢のなかであれ今の俺はきっとしていない。青白く生気のない顔。壊れた機械の如く軋む体。そうして同じ毎日を繰り返す。俺はこの時まだ純真無垢であった少年の謂わば成れの果てとでも云うべき姿をしている。
とにかく居心地が悪い。見られたくない。
ここから逃げ出したい。夢なら早く覚めないものか。そんな想いが次々に湧いてくる。
平坦で味気なく色褪せた日々。
日常的な疲労から疲れているという自覚はすでになく、活力とは一体何を指し示す言葉だったのかも忘れてしまった。よくもまあ生きている──というより、単に死んでいないと云ったほうが相応しい。
端から見ればそんな風には見えないのかもしれないが、実際の俺はかなりぎりぎりの状態だった。自ら病んでいると認めてしまえば少しは楽になるのかもしれないが、それにはまだ暫しの猶予がある気もする。
ふう、と溜め息が漏れた。
その時だった。突然の激しい目眩とともに俺の視点は徐々に低くなり少年のそれとなった。少し吐き気がした。意識は少年と溶け合い、いつしか完全に同化していた。俺は──少年になっていた。
──何だ、これ?
──俺は、どうなった?
見ると、疲れきった俺の体は力なく雪の上に倒れていた。
*
雪の上に腰を落とすと、ずぼりと沈んで体がくの字に曲がった。そのままの姿勢で辺りを見回す。少しも綺麗でなかった。そり遊びをするにも充分な量が降ったと云うのに嬉しくもなんともないのは、現実世界の俺がもうそんな歳でないからだろうか。
今が何時かまでは分からないが、夕方ではあるのだろう。稜線に浮かぶぼんやりとした光の影は沈んで行くようにしか見えない。それに、じき夕飯時であるに違いない。腹の時計もそう告げている。倒れた俺の体のことなど、もうどうでもよかった。
──ああ、腹減った。
酷い空腹を感じる。
雪を一掴み口の中に放り入れる。それはどこか金属的な味がするばかりで腹の足しにはならなかった。
鼠色の空から無数の綿虫のように雪が舞っている。それは雪にまみれた毛糸の手ぶくろの上までやって来ては音もなくその動きを止めた。
風も無くとても静かだ。何処かで人の気配はしないものかと瞼を閉じ耳を澄ます。すると、湿った空気が穴から出ていく音、ざらざらと液体の流れる音、そしてとくんとくんの脈打つ鼓動が聞こえた。耳の奥では、きーんとか、じーんとか、そんな音もした。
「僕の音だ。僕ってうるさいんだ──」
俺ではない、少年がそう呟いた。その小さな声がまるで轟音のように響いた。
「じっとしてたら雪に埋まっちゃうのかな?」
少年はそうも云う。
「春になったら雪と一緒に溶けて無くなっちゃうのかな?」
どれも少年の独り言のようだったが、俺だけでもこのままそうなりはしないかと思わずにいられなかった。
何かが俺を蝕んでいく感触だけがはっきりと判る。それは、とても嫌な感じだった。
──そうだ、嫌な感じ。
この"感じ"と云う奴が曲者なのだ。この"感じ"と云う曖昧なものの中にこそ、本当に向き合わなければならない何かがある。そこまでは解る。だが、その先が解らない。
その何かに俺は呪われているのかもしれない──。
*
目が覚めた。
──嫌な、夢?
時計を見ると午前五時。月が出ているのだろうか、カーテンの向こうがやけに明るい。夜が明けるにはまだ少し間がある。部屋も、それに外もしんと静まりかえっている。俺はカーテンを引いた。
雪が積もっていた。日が昇れば溶けて無くなるくらいの積雪。見上げた空は濃紺で月は無く、星だけが瞬いていた。微かな光に照らされ一面が白く輝いて見える。
いや、何処か街の灯りが反射しているのだろう。この街に真の暗闇などないのだ。あるとすれば、それは──。
まだ夢の中にいるような感覚とともに、さっきまで見ていた夢が夢ではないような気がしてきた。あれは、夢と云うよりは、記憶。
「あんなことがあった気が──する。雪に埋もれる痛みの記憶」
──あの日、俺は死ぬつもりだった。
突如として甦った感情が波のように押し寄せる。どうにかなってしまいそうだった。いよいよもってやばい感覚。だが、俺は何とか、何故だか堪えた。あと一歩のところで、耐えた。
まるで崖っぷちにいるような感覚で、靄のような記憶を手繰り寄せる。
あの日、きっと幼い俺には別の感情を認知することなど出来なかったし、しようともしなかった。短絡的に連想する最悪がただ「死」であったに過ぎなかったのだろう。長さを物指しで分解することもよく解らない少年が思考を理路整然と並べることなど、さらさら無理なのだ。
あったのはただ、何とも云えない不安と孤独、そして寂しさみたいなものだったに違いない。きっと約束していた友達と遊べなかったとか、欲しいおもちゃが買ってもらえなかったとか、そんなもんだろう。
いや、本当に、それだけだったか──思い出せない。
家では誰かが、自分を探し始めていたかもしれない時間。そういう、何かの隙間のような、何処もかしこも灰色だらけの世界できっと腹が減っていて、そしてとても寒かったに違いない。それが精神的に大そう良くないことであるのを俺は大人になるまで知らなかった。
「俺はひとり泣きながら家に帰ったんだ──」
結局、誰も探しに来てはくれなかった。やっぱりあのまま死んでしまえばよかったと思いながら、そうだ、とぼとぼと歩いたのだ。
──そうだ、そうだった。
今の今まで忘れていた。雪が降り始めるといつも感じるあの得たいの知れない不安の正体。いつか俺はあの日の少年を暗い雪の森から救い出してやりたい、そう思った。
俺は何かに呪われていた訳ではない。
「生きていたってしょうがない」
「僕は、きっといらない子なんだ」
「僕は、僕は、何もできない」
僕なんて。
俺なんか。
そう、呪いを掛けたのは──俺だ。
「俺は、お前は、あるがままで、それだけで充分だったんだ──」
俺はそう朧げに光を放つ窓辺の雪を握りしめながら云った。それはとても冷たく、痛かった。
とはいえ、この疲弊した現実を受け入れるのは俺にとっても苦しみと痛みを伴う作業になる。それでも、ここから一歩を踏み出すことは出来るかもしれない。結局、何も変わらないかも知れないが、俺のなかの、それこそ何かが少しだけ変化し溶けたような気がした。
その日、俺はどうにか仕事に出ることができた。そして、いつもと同じように何処かの誰かのために空虚な時を過ごした。幼い日の自身に夢で会ったくらいでいきなり昨日と違う訳もなく、やがていつものように帰路についた。
帰り道、ちらちらと雪が降りはじめた。
雪が降りつつ、日が暮れていった。
それを「雪暮れ」と呼ぶのだと、俺は暫くたってから知った。
〈了〉
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