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『割れたグラス』

「やっぱり枯れちゃったか。ごめん、見苦しいわね」

 その夜、彼女はそう言って観葉植物だったと思しき小ぶりの鉢植えを片付けはじめた。

 決して広いとは云えない部屋。そこには長屋の端だからこそ取り付けられたのか、表に出られるくらいのガラス戸と、それにともない一際大きな薄緑色のカーテンが掛けられていた。

 その布に身を寄せるように脇に追いやられた小さな木製のフラワースタンドは、どこか所在なさげで寂しそうに見えた。

 そんな風に感じたのは、僕が束の間のアーティストを気取っていたせいだろう。

 残された水受け皿が仕舞われてもスタンドの天板が日焼けしているようには見えなかった。世話もせずに置きっぱなし、という印象を僕は受けなかった。

 さっきまでそこにあった植物は"枯れた"というほどには乾燥していないよう見えたし、受け皿には微かに水の痕跡が残されていた。

 伊織さんは僕の五つ年上で当時一緒に組んでいたバンドでリードボーカルをしていた。アマチュアなりに安定した音程と抜群の歌唱力を持っていた。お酒が強くてビールが特に好きだった彼女は、カラオケでサッポロ黒ラベルを飲みながら、マルボロ片手にその歌声でよくまわりを驚かせていたものだ。

 その夜はライブで演奏する曲を決めるために彼女の家を訪れていた。どうしてそういうことになったのかはよく覚えていないが、とにかくミュージックビデオを見ながら、ふとその鉢植えに目をやった僕に気がついて彼女が声をかけたのだ。

「この部屋じゃ、どうしても枯れてしまうのよね。わたし、植物好きなんだけど」

「どうして枯れちゃうんですか?」

 そう聞いた僕に彼女は、こう言った。

「ほら、このアパートって四軒長屋の端にあるじゃない。どうやらこの辺りが通り道になってるらしいの。向こうの家から入って、この家から出ていくみたい。たぶん、枯れちゃうのもそのせいなんだと思う」

 ひとつの建物であっても、それぞれはあくまで家であって、部屋とはやはり違うのだと当たり前のことを思った。しかし、最初はなんのことを話しているのかピンと来ず、とりあえずその場は「そうなんですか」と返事をした。 

 彼女には二才年下の舞さんという妹がいたが、その夜は不在だった。ちなみに、その舞さんもおそろしく歌が上手かった。
 高校進学と同時にまず伊織さんがここに越してきて、その後、舞さんも同じくここに住むようになったのだと云う。

「まあ、それまでも、おかしなことは色々とあったんだけどね。舞にはあんまり話してないの。あの子、怖がりだし。舞もわたしと同じでそういう体質だけど、わたしほどじゃないし、わたしが一緒なら、まぁ、問題ないかなって」

「でも、二年前に大屋さんが隣に蔵を建てたのよ。それがどうもいけないみたい。それまではただの通り道だったんだけど、ちょっと、溜まるようになっちゃって、前より長くいるのよねえ。やっぱり出にくくなったのかしら──」

 そこまで言うと、彼女は二缶目に手をつけた。僕は少しだけカーテンを開けてみた。確かにガラス戸の先には蔵のものだろう白っぽい壁がぼんやりと浮かび上がる。

 そして以前、こんなことがあったのだと彼女は話しはじめた。その日の夜も、いつものように夕食後、二人でお酒を呑んでいたのだという。



「ちょっと、トイレ行ってくる」

 そう言って、伊織は席をたちトイレに入った。少しすると、突然、雨の降る音が聞こえてきた。

 ざぁぁぁ…ざぁぁぁぁ……

 激しく降りだした雨に伊織は「洗濯物はどうだったかしら」と心配したが、帰ってきてすぐに取り込んだのを思い出す。

 トイレの小窓は、はめ殺しの磨りガラスだったし、夜ということもあって外の様子は想像するしかない。

 すると、つづけて声がした。

〈ア……メ……〉

 そして

〈ミ………ズ………〉

 耳元で囁かれているような女の声。
 伊織はそれを舞の独り言の断片が聞こえてきたのだと思った。

 トイレから出た伊織が言う。

「雨、降ってきたね」

「え、そうなの?」

 舞は不思議そうに言った。

「だって、舞、あんた雨だって」

「言ってないよ……」

 暗い外を見てみる。
 確かに雨は降っていないようだ。

「あぁ、そういうことか……」伊織は小さくそう呟いた。

──きっといつものアレだろう。

 伊織は早々とそう結論づけたが、その夜はすこし様子が違っていた。

 伊織は視界がいつもと違うことに気が付いた。珍しく酔っているのかと思った。裸眼のまま水中で眼を開けたようになっている。

「わたしも、トイレっ」

 そう言う舞に、伊織は声をかける。

「ちょっと待って。今じゃなきゃダメ?」

「何でよ?そりゃあ……」と言いかけて、舞もそれとなく異変に気が付いた。

「お姉、また、なんかあるんでしょ?」

「ううん、別になんでも…」

 その時だった。

「ひゃっ!」

 舞が声を上げた。

 見ると舞の持つグラスに大きなヒビが何本も入っている。
 恐る恐るグラスをそっとテーブルに置いた。
 置かれたグラスは音も無く割れ、中から飲みかけの液体がこぼれ出す。
 そして、グラスが割れるのとほぼ同時に本当に激しく雨が降りだした。

 ざぁぁぁ…

 ざぁぁぁぁ……

「舞、大丈夫?」

「う、うん…でも…グ、グラスが…」

 泣きそうな顔で、割れたグラスを片付けようとする舞を制止して、伊織が言う。

「それ、わたしが片すから、あんたはそこで座ってて」

「う、うん、わかった…」

 割れたグラスを台所に運び、片付けている伊織の背後で話し声がした。

 ぼそぼそと話す、数人の男たちの声。

 横目で舞を見る──。

 どうやら舞には何も聞こえていないらしい。
 固まったままじっとテーブルを見つめている。

 ざぁぁぁぁ………

 雨は勢いを増したが、それ以上何が起こっているわけではない。

 グラスが割れて、話し声が聞こえる。
 ただそれだけのこと──。

 このくらいなら大丈夫かも、たぶん……。
 何故かそう感じた。

 視界が水の中にいるようにぼやけて見えるのは、「その存在」がこの部屋にたくさんいるからで、それは前にも経験がある。今夜は少し多いだけ。それに話し声も何度か聞いたことがあるし──。

 伊織は自分にそう言い聞かせた。

──話し声がする以外には特に変化はないようだし、このままやり過ごせば問題無さそうだわ。グラスが割れて、舞が少し驚いたみたいだけど。

 伊織はこのまま「存在」が出ていくのを待つことにした。

 伊織の予想通り、片付け終わる頃には、話し声は聞こえなくなり、雨もいつの間にか止んでいた。

「舞ー、もうトイレ行っていいよー」

「マジ?よかったー」

 それ以降、その夜はとくに異変は起こらなかったと云う。


 伊織さんが少し説明してくれた。

「ほら、長屋のすぐ横に今では護岸整備がされてるけど、S川という川があるでしょ。その川沿いを昔ある一行が上流に向かって歩いていたみたい。
 それは「人柱」として選ばれた少女とその一行で、その念のようなものがこの部屋にしばらく留まっていたんだと思うのよね」

 伊織さんはドラマの内容を説明するように、淡々と語った。外を見ると夜が少し明けかけていた。

 この数週間後、僕は確かにそういった史実があることを知った。その建物とはM城という城であること。そしてその城跡近辺へは決して興味本位で近づいてはいけないと云われていることなど。

 あの夜、姉妹の家を訪れていた「その存在」が本当は何だったかなんて、僕には知る由もない。それに、あの「アメ」と「ミズ」という言葉と、グラスが割れた理由を伊織さんはそれ以上話してはくれなかった。

 それにしても、伊織さんという人は気が強いというか、楽観主義というか。僕は彼女の話を聞いた後しばらくそのトイレに行くことが出来なかった。

 しかしあの夜、事なきを得た彼女たち姉妹は、後にその「楽観主義」のおかげで、これまでとは違う危険な目にあうことになるのだった。

 そして、その四軒長屋は建物こそ新しくされたが今もその場所にある。



〈了〉

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