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なぜ、マルセイユなのか。

帰ってきたあとで、こんなブログを見て、後悔しています。https://4travel.jp/travelogue/11606017

マルセイユのこんなとこ行ってみたかった。食べてみたかったです。またしてもマルセイユのブイヤーベースはおあずけとなってしまいました。

とんだ臆病風に吹かれていたようです。他のブログでも、いまは治安は悪くない、と書いてありました。

なかなか、旅のガイドブックの言葉からは、なまの感触は伝わってこないし、実際に歩いてみると、おもいのほかいい街じゃん!と思うことは、わたその経験でも多々あった。でなきゃ、駅から降りた人が街に向かって歩いていかないじゃない? 旅行鞄持って歩いていくじゃない。そんなふうに後悔しています。

なぜにわたしはマルセイユに惹かれるのでしょうか。それは、たぶん、港町だから? パリとかニースという言葉のイメージとは、もう一つ、何かが違う。それは港町の香りのようなもの。都市の体臭のようなものをマルセイユには感じるのかもしれない。港町として長い歴史の中で培ってきた文化だ。

マルセイユは紀元前6世紀には港が開かれたという港町である。

異民族の侵入、ローマ帝国の支配を受けたこともあれば、中世ヨーロッパ世界を何度か震撼させたペストのフランスからの進入路も何度かマルセイユだったようです。

岩波新書の『ペスト大流行ーヨーロッパ中世の崩壊ー』(村上陽一郎著、1983年)には次のような記述がある。「五八八年ふたたび地中海沿岸地方(マルセイユ)に始まったペストが、北漸し、五九一年またもやマルセイユを出発して、アンジュール、ナント、マンなど北方の町へと達した。」


明治もマルセイユからやってきた。

そのような歴史があるばかりか、近代国家を作り上げようとした明治の日本との関係も深かった。司馬遼太郎の名著『翔ぶが如く』巻一の冒頭「パリで」の出だしから、「川路(利良)は洋服をきて一八七二年(明治五年)の九月に横浜を出帆し、厳冬といっていい季節にマルセーユに上陸した」とその地名が登場してくる。「列車がパリに近づくにつれて寒さがひどくなり、(まるで蝦夷地ー北海道ーのようだ)とおもい、ひざに毛布をかけた。」

船旅しかなかった明治の日本からパリを目指すとき、フランスの玄関はマルセイユでした。当時すでに交通の要衝で、パリへと続く鉄道が敷かれているのは今日と同じです。

飛行機が旅の主役となった現代では、日本からもパリが表玄関となったいまも、マルセイユには存在感があります。

今回の旅に出る前に買った『地球の歩き方 南仏 プロヴァンス コート・ダジュール&モナコ』。この裏表紙をめくったところに、日本のビジネスホテル「東横 INN」がマルセイユにフランス第一号店を出した広告が掲載されています。

東横イン、フランス初進出https://www.toyoko-inn.com/content/files/news/ja/nwrelease_20180509.pdf

わたしは、東横 INNに宿泊したことがなかったので、『地球の歩き方』の広告を見ても興味は持ちませんでした。が、帰国後してしばらくのち、大阪に行くことがあって宿泊したのが梅田の東横 INNでした。部屋の広さと 明るさ、ベッドサイズ、お風呂やトイレの広さなどがほどよく快適だったので、とても気になりなるようになりました。それで部屋備え付けのパンフレットを見て、親の跡を継いだ女社長が明確なポリシーを持って経営にあたっていること、どこの東横 INNでも同じ基準・規格で部屋やサービスを提供していることなどを知り、ビジネスホテルは新しい時代に入ったのだあなと思っています。

東横 INNはフランス進出第一号の地をなぜマルセイユにしたのだろう。いま、とても気になっているところです。

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