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ポーランドを去る日 <旅日記第41回 Nov.1995>

 ポーランドには9日間いた。特段の観光資源もないし、11月に入ってからは暗くて寒い。灰色にしか見えない景色しかない。けれど、まだまだこの国にはいたかった。この国に来て以来、出会った人すべて、心が温かった。去るのは後ろ髪が引かれる。

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ワルシャワ大学日本語クラスの見学の約束果たせず。

 特に、アイリッシュ・パブでマスターの仕事をしているヤツェックとは、かれの通うワルシャワ大学の日本語クラスに顔を出す約束をしていた。しかし、申し訳ない。グダニスクからワルシャワに戻ったその日の夜、ワルシャワには滞在をせず、その日の夜行でベルリンへ出国することを告げた。グダニスクからワルシャワへの列車で親切にしてくれたおばさんのおかげでアメリカン・エクスプレスで旅行小切手を現金化したが、あくまで当座の資金だ。大きい荷物はヤツェックの店に預かってもらっているので、取りに行って、最後のギネスを飲んだ。

 ワルシャワ中央駅国際線の切符売り場の不快な出来事は前にも書いた。わたしが「11:10 pmのベルリン行き」と書いて渡したメモを、「そんな列車はない。23時発だ」と大声で怒鳴って、わたしにメモを投げつけられたエピソードだ。市井の人々は素朴で飾らない心で接してくれたが、どうも、社会主義体制のもとにあった国営企業に従事してきた人々の接客は、論理的に呆れた。

 そんなすべてをヤツェックは憤った。そして、日本語クラスの日までは残っていられないことを告げるとがっかりしていた。

 「でも、それだけお金があったら、ポーランド人なら1か月暮らせる」と言われたときは、後ろめたく思った。

 それでも、ポーランドは離れる。

 駅まで歩いて15分ぐらいの距離だったが、わたしの荷物を持ってついてきてくれた。駅ホームからいっしょに列車内に入ってきて、対面式4人掛けのボックス席の中に3人が座っている席をわざわざ選び、「この人たちなら安全だ」とその席を勧めてくれた。前に友人が勧められるままに飲んだジュースに睡眠薬が入っていて強盗被害にあったためだ。細かい気配りもしてくれた。

ドイツ国境越えの手荷物チェック

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 列車は、未明、ポーランドとドイツの国境を越え、ドイツに入る。車内でパスポートと持ち込み手荷物の検査がある。旧の西ヨーロッパ内であれば欧州統合ムードの中でゆるいチェックしかないが、東側から西側に入るときはベルリンの壁崩壊後も厳格だった。わたしの周りの良きおじさんとおばさんたち3人は全員手荷物をすべて開けるよう指示を受けた。検査官は、一人ひとりの荷物をすべて開け、手を入れ、入っていた酒瓶などを残らず出して違法な持ち込みはないか、入念にチェックした。

 残るはわたし一人。

なぜ、私だけ?

 「そのかばんはあなたのか?」。

 「そうです。」

 すると素通りだった。

 日本人であるわたしは、特別安全と判断された。

 車内にいるであろう、ポーランド人や、ベラルーシやウクライナ、ロシアから来た人たちに対する態度とのあまりに大きなギャップに、戸惑った。相席の3人に対する態度との差に動じた。自分一人だけ優遇されたことで 相席の3人に申し訳なく思った。

 旧東欧圏の人々が置かれた現実ではあった。

             (1995年11月4日~5日)

てらこや新聞125号 2015年 09月 06日

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