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<旅日記③ Sep.1995>マラッカ(マレーシア)


【マラッカ海峡の夕陽は見なかったけれど・・・】

マラッカの夕陽は美しい、という。

旅本として広く知られる、沢木耕太郎の古典的名著『深夜特急』にそう書かれて以来、マラッカ海峡に沈む夕陽を見ることは日本人バックパッカーたちには旅の聖地を訪れるような興奮を伴うものとなった。

『深夜特急』を読むのは、旅の予習のようだった。シンガポールの空港に着陸してから、この旅の起点は、マレーシア南西部の、マラッカ海峡に臨む港町、マラッカがいいと決めていた。その理由は「マラッカの夕陽は美しい」だったにちがいない。

そのために、シンガポール、マレーシアの南の国境の街・ジョホールバルからここへ急いだのだった。

ジョホバルの駅で、マラッカ行きのバスは出たあとだった。客引きの運転手に声を掛けられるまま乗ったクルマは、5時間ほど乗って数千円だったとはいえ、半年という長い貧乏旅の行程を考えれば高くつく。その分、これからは安宿生活を覚悟しなければいけない。陽がすっかり落ちてしまったあと到着したマラッカの街で最初にしたことは安宿探しだった。

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例の運転手に、安宿のありそうなところまで連れて行ってもらって、適当なところでクルマを降りた。宿の名前は、「金華楼」だったか。フロントには中国系の男性2人。人なつっこい笑顔に安心した。


夜中にロビーに出ると、男二人はソファーで寝っ転がり、セキュリティをガードしている。年中、こんなふうな生活をしていたら、体にきついだろうに。

自分がいつ眠りに就いたかは思い出せない。ただ、朝のことは覚えている。別の部屋の住人の、窓から痰(たん)を吐く音で目覚めた。

窓から見えた風景は、ゴミためのようなドブ川と、崩れ落ちそうなバラックのような建物が数棟。

聞こえてきた痰の音と風景に、この旅の性格をダブらせた。

宿主の乗ったクルマと街で遭遇

「いまから寺参りするのだけれど、乗る?」

チャイナタウンを歩いていると、クルマがわたしを通り越したあと止まり、窓からわたしを振り返っている。前日からお世話になっている宿「金華楼」オーナーの笑顔だった。

仏教寺院のあと、「家に寄っていく?」と誘われ、自宅に通された。高床式のようなマレー式の建築だった。

「今度、マラッカに来ることがあればここに泊まるといいよ。もちろん、お金なんか要らない。仕事は仕事。家は家だよ」。

奥さんのおばあさん

かれの快活さと笑顔が気持ちいい。奥さんを紹介された。控えめな笑顔で、かれとは違い無口だった。ホテルを営んでいる旦那さんと違い、あまり、外国人には慣れてはいないのかもしれないと思った。

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しかし・・・だった。

彼女は日本人と血がつながっているらしいことがわかった。

「亡くなった、彼女のおばあさん、ミチコっていうんだ」。

託された辞書

“証拠”の品として見せてくれたポケットサイズの日馬(日本語・マレーシア語)辞典の裏に、万年筆で「美智子」と書かれていた。日本に持ち帰ってくれないかと頼まれた。

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戦争と重なる時期のことだろうが、「美智子」さんは、どのようにして異郷の地マレーシアに来たのかは聞かなかった。少し苦しいような気持ちになった。

「ほんとにまたいつか来てくれよ。今度はこの家に泊れ、って」。

街に戻った。

マラッカに来てまたしても夕陽を見損ねたことを、陽が落ちてから気づいた。

夜の中華街の雑踏の中を歩いた。

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さまざまな雑貨や食べ物を売る屋台。そして、人、人、人・・・。へばりつく蒸し暑さと街のにおい。わたしの体は、アジアの熱気の中に溶け込んでいる。


感傷に浸っている自分はなかった。

『あしたはクアラルンプールへ行こう』。

出発を決めた。

この旅を終えて16年たついまでも、「美智子」さんという人のことを忘れてはいない。彼女の辞書といっしょに、美智子さんへの“記憶”を日本に持ち帰らせていただいたようだ。

それをホテルのかれは望んだのかもしれない。

(1995年9月3日~4日)

(てらこや新聞84号 2012年 03月 28日)

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